マルタ会談
概要
ブッシュとゴルバチョフが嵐の中、ソ連の客船で。「冷戦の終わり」を二人で言った。ヤルタから44年。「ヤルタからマルタへ」。条約はなかった。ゴルバチョフは「我々は互いを敵と見ない」。東欧はもう崩れていた。2年後、ソ連も。
場所
35.90°N 14.51°E · マルタ
関わった人(2)
ゴルバチョフAD1931年3月2日–AD2022年8月30日 · ソジョージ・H・W・ブッシュAD1924年6月12日–AD2018年11月30日 · 米本文
1989年12月2日と3日、地中海の島国マルタで、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソ連の最高指導者ゴルバチョフが会談した。ベルリンの壁が崩れてから、わずか3週間あまり。会談は冷戦の終わりを告げる場として記憶されている。1945年に米英ソの首脳が戦後の世界の形を話し合ったヤルタ会談になぞらえて、報道は「ヤルタからマルタへ」と書いた。
1989年は、東ヨーロッパが一気に動いた年だった。ポーランドでは、連帯の結成以来の自主管理労組「連帯」が6月の選挙で圧勝し、非共産党系の首相が生まれた。ハンガリーはオーストリアとの国境の鉄条網を取り払い、東ドイツの人々がそこから西へ逃れ始めた。11月9日にはベルリンの壁の崩壊が起き、チェコスロヴァキアではビロード革命が進んでいた。ゴルバチョフは、東欧の国々がそれぞれの道を選ぶことを認め、かつてのように戦車を送って改革を押しつぶすことはしなかった。

ブッシュは同じ年の1月に大統領に就任したばかりだった。前任のレーガン政権の末期には、米ソの関係はすでに大きく改善していたが、ブッシュ政権は当初、ゴルバチョフの改革がどこまで本物なのかを慎重に見極めようとしていた。夏、東欧を訪れたブッシュは、変化の速さを目の当たりにして、ゴルバチョフと直接会う必要を感じ、非公式の首脳会談を持ちかけた。正式な首脳会談のような準備のいらない、率直に話し合う場を、という趣旨だった。
場所に選ばれたのは、マルタの南東のマルサシュロック湾だった。両首脳がそれぞれ自国の軍艦に泊まり、互いの艦を行き来して会談するという、海の上の会談が計画された。ところが12月2日、地中海は季節外れの激しい嵐に見舞われた。高い波のため、小舟で艦の間を行き来することができなくなった。会談の場は、港に係留されていたソ連の客船マクシム・ゴーリキー号に移され、予定の一部は取りやめになった。のちに「船酔い会談」とからかわれることになる。

会談で、ブッシュはソ連の改革を支援する一連の提案を示した。貿易の制限の緩和や、ソ連の経済の立て直しへの協力などである。ブッシュは、アメリカは東欧の変化につけこんでソ連を窮地に追いやるつもりはない、と伝えたとされる。ゴルバチョフは、ソ連はもはやアメリカを敵とは見なしておらず、どんな場合にもアメリカに対して戦争を始めることはない、と述べたとされる。両首脳は、戦略核兵器の削減や、ヨーロッパに配備された通常戦力の削減の交渉を急ぐことでも一致した。
最も難しい問題は、ドイツだった。東ドイツの体制は崩れつつあり、東西ドイツの統一が現実の問題になり始めていた。ソ連にとって、第二次世界大戦で2000万人を超える犠牲を出して戦ったドイツが、再び一つの大国になり、しかも西側の軍事同盟に入ることは、受け入れがたいことだった。ブッシュは統一を支持する立場を示し、ゴルバチョフは、統一は歴史が決めることだとして、急ぎすぎることへの警戒を表した。この会談では結論は出なかった。

12月3日、両首脳は初めて、米ソ首脳による共同記者会見に臨んだ。ゴルバチョフは、世界は一つの時代を終えて、新しい時代に入ろうとしている、と語った。ブッシュも、永続する平和と東西関係の変化に向けて協力していく、と応じた。「冷戦は終わった」という言葉が、どちらの首脳の口からはっきりと語られたわけではない。それでも、二つの超大国の指導者が肩を並べて未来を語る姿は、世界にとって冷戦の終わりを象徴する場面になった。
マルタ会談では、条約も協定も結ばれなかった。会談は、すでに起きていた変化を、米ソの首脳が互いに確かめ合い、追認する場だったとも言える。ヤルタで大国の首脳がヨーロッパの分け方を話し合ったのに対し、マルタの時点では、ヨーロッパの分断はすでに東欧の人々自身の手で壊されつつあった。

その後の変化は、マルタで二人が予想したよりもさらに速かった。その月の末にはルーマニアでルーマニア革命が起き、ニコラエ・チャウシェスクが処刑された。1990年10月3日、ドイツは統一された。ソ連は最終的に、統一ドイツが西側の北大西洋条約機構に残ることを認めた。1990年11月にはヨーロッパの通常戦力を削減する条約が、1991年7月には米ソの戦略核兵器を削減する条約が結ばれた。そして1991年12月、ソ連そのものが消滅した。
マルタ会談で冷戦が終わったのか、それとも冷戦はそれ以前に終わっていて、マルタはその確認にすぎなかったのか。あるいは冷戦の本当の終わりはソ連の消滅だったのか。歴史家の見方は分かれている。この会談でドイツ統一の後の北大西洋条約機構の東方への拡大について何らかの約束があったのかどうかも、のちの時代にロシアと西側の間で争点になった。マルタ会談そのものではこの問題は具体的に話し合われていない、とする見方が多いが、1990年の統一交渉の中での西側の発言をめぐっては、いまも解釈が分かれている。

アジアでは、同じ1989年の6月に北京で天安門事件が起き、共産党の体制は力で守られた。冷戦の終わり方は、ヨーロッパとアジアでまったく違っていた。嵐の中の船の上での会談は、ヨーロッパの冷戦の終わりの象徴として語られる一方で、その後の世界が一つの平和な時代になるという期待は、長くは続かなかった(物語「冷戦のあと」)。