『モンタイユー』で読む中世の村
概要
ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。
この物語について
700年前の村人が、誰と寝て、何を食べ、死んだらどうなると思っていたのか。そんなことが、本当に分かるのか。
『モンタイユー』(エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ、1975年、日本語版1990年)は、一つの村の、7年分の裁判記録だけで書かれている。副題は「ピレネーのオック語の村、1294〜1324年」である。著者はフランスの歴史家で、雑誌『アナール』に集まった学派の第三の世代を代表する一人だった。最初の大著では、南フランスのラングドック地方の農民を、数百年にわたる人口と物価と土地の数字で描いた。数字の歴史家が次に選んだのは、一つの村の、名前のある一人ひとりだった。この本はフランスで思いがけないほど売れ、歴史書としては異例のベストセラーになった。
モンタイユーは、ピレネー山脈の北の斜面、いまのフランスとスペインの国境に近い高地の村である。人口は200人から250人ほどで、人びとは羊を飼い、わずかな畑を耕し、互いの家を行き来して暮らしていた。
この村には、異端が根を張っていた。12世紀から南フランスに広がったカタリ派は、この世は悪の神が作ったもので、魂はそこに閉じ込められている、と説いた。教会は1209年にアルビジョア十字軍を起こしてこれを攻め、1244年のモンセギュールの陥落では、山の上の城に立てこもった信徒200人あまりが火刑にされた。それでも信仰は山の村々に残った。14世紀のはじめ、オティエという兄弟がイタリアから戻って布教を始め、モンタイユーの多くの家が、ひそかに彼らを迎えた。1308年、カルカソンヌの異端審問官が村を襲い、大人をほとんど全員捕らえている。

パミエの司教ジャック・フルニエは、几帳面な人だった。1318年から1325年まで、彼は自分の司教区で異端審問を開き、カタリ派の残党を調べるために、村人を呼び、細かく尋問し、すべて書き取らせた。モンタイユーの異端審問である。村人が話したのは土地の言葉のオック語だったが、記録はラテン語に訳されて清書された。その記録の写しは、のちにヴァチカンの図書館に納められ、今日まで残った。フルニエはその後、1334年に教皇ベネディクトゥス12世になる。南フランスの教皇のアヴィニョン捕囚の時代で、彼はアヴィニョンに教皇の宮殿を建て始めた。異端を追った司教が教皇になり、その几帳面さが、追われた側の暮らしを後世に残した。
フルニエは拷問にほとんど頼らなかったとされる。同じ人を何度も呼び、話の食い違いを突き、時間をかけて聞き出した。そのため、調書は長く、細かく、話す人の口ぐせまで残すものになった。
異端の証拠を探すには、日常を知る必要がある。だから調書には、誰が誰の家に泊まったか、羊をどこへ追ったか、誰と寝たか、死者をどう弔ったか、魂は何だと思うか、が並んでいる。記録に出てくる人のうち、二十数人がこの村の者だった。
著者はそれを、人類学者が村を調べるように読んだ。本の前半は、村の暮らしの形を描く。単位は家(オスタル)だった。家は建物であり、家族であり、財産であり、信仰の単位でもあった。家ごとにカタリ派を迎えるかどうかが決まり、家どうしの付き合いと争いが村を動かした。後半は、人びとの心の中に入っていく。
カタリ派の教えでは、信徒の多くは普通に暮らし、死の床で「完徳者」と呼ばれる聖職者から救いの儀式を受ければよかった。儀式のあとは食を断って死を待つ者もいた。だから、死にかけた家族のもとへ完徳者を招いたかどうかが、審問でいちばん厳しく問われた。
村でいちばん力を持っていたのは、クレルグ家だった。その一人ピエール・クレルグは村の司祭でありながら、カタリ派に通じ、多くの女性と関係を持ち、のちには審問官に村人を密告する側にも回った。司祭と領主代理の兄弟が村を握り、敵を審問に売ることで自分の家を守った。調書には、彼の愛人だった城代の未亡人ベアトリス・ド・プラニソルの、驚くほど率直な告白も残っている。だが、密告で身を守ったピエール・クレルグも、最後には捕らえられ、獄中で死んだ。ベアトリスも1320年に捕らえられ、罰として、服に黄色い十字を縫い付けて暮らすよう命じられた。審問の罰は、牢に入れること、黄色い十字を付けさせること、遠い聖地への巡礼を命じることが多く、一度考えを捨てると誓ってまた戻った者は火刑にされた。
羊飼いのピエール・モーリは、別の世界を見せてくれる。彼は夏はピレネーの高地へ、冬はカタロニアの平野へと羊を追い、何年も国境を越えて暮らした。持ち物はわずかで、家も持たず、それでも自分は自由だと語った。山の羊飼いたちは国境の両側に仲間を持ち、異端の信徒をかくまう網の目にもなっていた。
暮らしの細部も残った。女たちは恋人や家族の頭のシラミを取りながら話し込んだ。それは愛情のしるしであり、うわさの交換の場でもあった。人びとは死者の魂が夜にさまよい、家に戻ってくると信じ、魂が動物に生まれ変わると語る者もいた。教会の教えとは違う考え方が、教会の目の届かないところで普通に生きていた。時計の無い村で、人びとは時間を祈りの時刻や食事や日の傾きで数え、世界の広がりを、羊を追う道とトゥールーズやカタロニアの町までの距離でつかんでいた。著者は、こうした時間と空間の感じ方にも一つずつ章を立てている。性についても、結婚の外の関係が珍しくなく、罪と考えない者もいた、と記録は伝える。
家族の情も記録に残った。中世の人びとは子どもの死にあまり心を動かさなかった、という説が当時は有力だったが、調書の中の母親たちは、死んだ子を思って激しく嘆いている。著者はそれを、子ども時代という考えが近代になって生まれたとする説への反証として示した。暮らしの不満も見える。司教は羊の子にまで十分の一税をかけようとし、それに対する恨みが、教会を拒むカタリ派への共感を支えていた。
この地方で最後の完徳者とされるベリバストは、1321年に火刑にされた。審問のあと、信仰は消えていく。そして1348年、黒死病がこの地方にも届いた。著者が描いた村の暮らしは、そのすぐ前の、最後の姿だったことになる。
批判もある。審問の記録は、尋問する側の問いに沿って引き出され、ラテン語に訳され、整えられたもので、村人の言葉がそのまま残っているわけではない。著者はそれを、あまりに素直に村人の声として読んでいる、という指摘になる。記録の読み違いや、一人の人物を二人と取り違えた箇所なども、のちの研究者に指摘された。それでも、中世の農民が一人ひとり名前と声を持って現れる本は、それまでほとんど無かった。
この物語は、本が扱った時代を並べたものになる。本文は写していない。弾圧の記録が、弾圧された側の暮らしを伝える唯一の史料になっている。同じ方法で16世紀の粉挽きを描いた物語「『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙」と並べて読むことができ、物語物語「誰が書き残したか」とは、同じ問題の裏側になる。著者は2023年に死んだ。この年表のフランス王国の王たちの下で、山の上の村が何を考えていたかを、いまも私たちはこの一冊で知る。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(4)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- フランス王国国AD987年(ユーグ・カペーの即位) – AD1792年(王政の廃止)パリ周辺だけの弱い王家から始まり、800年かけて六角形を埋めた。国王の権力を強くしていった果てに、その国王が革命で処刑される。
- 教皇のアヴィニョン捕囚できごと1309年尋問した司教が、のちに教皇になる教皇庁がフランス王の影響下に移った。教会の権威が世俗の力に押される。アヴィニョン
- モンタイユーの異端審問できごと1318年全篇ピレネーの村の住民が、カタリ派の疑いで一人ずつ尋問された。その調書に、羊飼いの恋愛も、隣人の噂も、死後の世界の考えも残った。中世の村の暮らしを内側から読める、ほとんど唯一の史料になる。モンタイユー
- 黒死病できごと1347年この村の記録の、すぐあとに来るものヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
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