人物

クワメ・エンクルマ

Kwame Nkrumah
AD1909年9月21日 – AD1972年4月27日(享年62)
ガーナ重要度 4

概要

サハラ以南で最初に独立を勝ち取った国の指導者。アフリカは一つになるべきだと説き、クーデタで倒される。

関わったできごと(2)

ガーナの独立AD1957年3月6日 · 初代首相アフリカの年AD1960年 · 汎アフリカ主義の中心

本文

1909年9月21日頃、イギリスの植民地だった西アフリカの黄金海岸(ゴールドコースト)、その南西部のンクロフルという村に生まれた。クワメは、土曜日に生まれた男の子に付けられる名である。父は金細工師で、母は小商いをしていた。カトリックの学校で学び、首都アクラ近郊のアチモタの学校で教員の養成を受けて、教師になった。

ジョン・F・ケネディ大統領とエンクルマ(1963年3月)
ジョン・F・ケネディ大統領とエンクルマ(1963年3月)Wikimedia Commons Abbie Rowe · Public domain

1935年、26歳で大西洋を渡り、アメリカに留学した。ペンシルヴェニア州の黒人大学リンカーン大学と、ペンシルヴェニア大学で、経済学、社会学、神学、哲学を学んだ。学費を稼ぐために皿洗いや船の仕事をし、黒人教会で説教もした。10年に及ぶアメリカ暮らしの中で、人種差別を身をもって知り、アフリカ系の人々は世界のどこにいても一つの民族として団結すべきだ、という汎アフリカ主義の思想に深く影響を受けた。

1945年にはロンドンに移り、同じ年の10月、マンチェスターで開かれた第5回汎アフリカ会議の組織にあたった。会議には、のちにケニアの初代大統領になるケニヤッタら、アフリカ各地の若い活動家が集まり、植民地の即時の独立を求める決議を採った。

ソ連で発行されたエンクルマの肖像切手(1989年)
ソ連で発行されたエンクルマの肖像切手(1989年)Wikimedia Commons USSR Post · Public domain

1947年、エンクルマは黄金海岸に戻り、自治を求める政党の書記長になった。だが、穏健な弁護士や商人が中心の指導部とはすぐに対立した。1949年、自ら会議人民党を作り、「自治を今すぐ」を掲げた。農民、労働者、教師、若者を組織し、集会で人々に直接語りかけた。翌年、植民地政府に対してストライキとボイコットを呼びかける「積極行動」を始めると、扇動の罪で捕らえられ、禁錮の刑を受けた。

獄中にいる間の1951年、植民地で初めての総選挙が行われ、会議人民党は大勝した。イギリスの総督は、エンクルマを釈放して政府の指導者に迎えるほかなかった。牢獄から首相官邸へ、という劇的な転換だった。翌年には首相となり、イギリスと交渉を重ねて独立への道筋をつけた。

アコソンボダム。エンクルマ政権下の大型プロジェクトであり、1966年に完成した
アコソンボダム。エンクルマ政権下の大型プロジェクトであり、1966年に完成したWikimedia Commons Allison Stillwell at English Wikipedia · CC BY 3.0

1957年3月6日、黄金海岸は独立し、国名を中世に西アフリカで栄えた王国にちなんでガーナとした(ガーナの独立、ガーナ帝国)。サハラ砂漠より南のアフリカで、植民地支配から独立した最初の国の一つだった。独立の前夜、エンクルマは群衆を前に、ガーナの独立は、アフリカ大陸全体の解放と結びつかなければ意味がない、と演説した。

その言葉どおり、エンクルマはアフリカ全体に目を向けた。1958年にはアクラにアフリカ各地の独立運動の指導者を集め、独立したばかりのギニアと連合を結んだ。コンゴのパトリス・ルムンバも支援している。アフリカは一つの政府のもとに統一されるべきだ、と説き、『アフリカは統一せねばならない』という本も書いた。1963年、エチオピアのアディスアベバでアフリカ統一機構の設立が実現すると、その中心の一人になった。ただ、各国の主権を重んじる指導者が多く、エンクルマの唱えた大陸の統一政府は受け入れられなかった。

エンクルマ記念碑内にあるエンクルマの墓
エンクルマ記念碑内にあるエンクルマの墓Wikimedia Commons Edward Kamau · CC BY 3.0

国内では、工業化を急いだ。ヴォルタ川に巨大なアコソンボ・ダムを造り、その電力でアルミニウムの精錬所を動かす計画を進めた。学校、病院、道路、港が次々に造られ、教育は大きく広がった。だが資金の多くは借金で、国の収入を支えていたカカオの国際価格が1960年代に下がると、財政は急速に悪化した。

政治は次第に独裁へ傾いた。1958年には、反対派を裁判なしで最長5年拘束できる法律を作った。暗殺未遂が何度か起きると、取り締まりはさらに厳しくなった。1964年、国民投票で会議人民党以外の政党を禁じ、自らを終身の大統領とした。人々は彼を「救い主」と呼び、その像が国会の前に立てられた。

エンクルマと周恩来(1964年)
エンクルマと周恩来(1964年)Wikimedia Commons 人民画报 · Public domain

1966年2月24日、エンクルマが北ベトナムへ向かう途中、北京に立ち寄っている間に、ガーナで軍と警察がクーデターを起こした。アクラでは、群衆が彼の像を引き倒した。帰国できなくなったエンクルマは、隣国ギニアの大統領セク・トゥーレに迎えられ、名目上の共同大統領の地位を与えられた。クーデターには欧米の情報機関の関与があったのではないかという疑いも語られてきたが、どこまで関わったかははっきりしない。

亡命の地で、エンクルマは本を書き続けた。独立した国々も、経済で旧宗主国や外国の資本に支配されていれば本当の独立ではない、と論じ、それを「新植民地主義」と呼んだ。1972年4月27日、がんの治療を受けていたルーマニアのブカレストで亡くなった。62歳だった。遺体はガーナに戻され、のちにアクラに霊廟が造られた。

エンクルマとナセル(1965年)
エンクルマとナセル(1965年)Wikimedia Commons Not credited · Public domain

エンクルマは、植民地から独立を勝ち取る運動を率いた英雄として、アフリカ全体でいまも敬われている。一方で、独立を勝ち取ることと、その後に国を治めることは、別の難しさを持っていた。一党支配と個人崇拝、経済の破綻と軍のクーデターという道筋は、のちにアフリカの多くの国がたどることになった。

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