マリ帝国の成立
概要
スンジャタが建てた。その物語は文字ではなく語り部によって伝えられ、いまも西アフリカで演じられている。
場所
11.38°N -8.40°E · ギニア(マリ帝国の都とされる)
関わった人(1)
スンジャタ・ケイタ?–AD1255年頃 · 当人本文
西アフリカの内陸、サハラ砂漠の南の縁にあたるサヘルの地域では、古くから金と塩の交易が国を育ててきた。南の森林地帯の近くで採れる金を、北のサハラで切り出される岩塩と交換し、その金がラクダの隊商で地中海世界へ運ばれた。11世紀までこの交易を握っていたガーナ帝国が衰えると、その跡をめぐって諸勢力が争った。13世紀の初めに強大になったのが、鍛冶師の血統を引くとされるスマオロ・カンテの率いるソソの国である。
ニジェール川の上流には、マンディンカの人々の小さな国々があった。その一つの王家に生まれたのがスンジャタ・ケイタである。その生涯を伝えるのは、主に語り部(グリオ)が代々語り継いできた叙事詩である。父は王、母のソゴロンは容姿に恵まれない女性だったが、王に嫁げば偉大な王を産むという予言のために迎えられた。生まれた子スンジャタは、7歳になっても歩くことができず、母は他の妃たちにあざけられた。ある日、スンジャタは鉄の棒を持ってこさせ、それにすがって立ち上がると、棒は曲がってしまった。立ち上がった少年は、バオバブの木を根こそぎ引き抜いて母のもとへ運んだという。

父の死後、スンジャタと母は宮廷を追われ、各地を流浪した。そのあいだにソソのスマオロがマンディンカの国々を征服し、人々を苦しめた。人々に呼び戻されたスンジャタは、諸国の兵をまとめてスマオロと戦った。叙事詩では、スマオロは強力な呪術に守られていたが、その弱点を知ったスンジャタの側が、白い雄鶏の蹴爪をつけた矢でその力を破ったとされる。伝承では1235年ごろ、キリナの戦いでソソ軍は敗れ、スマオロは山へ逃げて姿を消した。
叙事詩は史実そのものではないが、北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥーンも、14世紀の著作の中で、マリの王の一人として「マーリー・ジャータ」の名を挙げ、彼がソソを破って国を大きくしたことを記している。スンジャタという人物とその勝利は、口承の外からも裏づけられているのである。

伝承によれば、勝利の後、スンジャタはクルカン・フガという場所に諸氏族の代表を集め、新しい国の決まりを定めた。どの氏族がどの役目を担うか、氏族どうしがどう助け合い、からかい合うか、争いをどう収めるかが定められたという。後に「マンデン憲章」として伝えられる文言には、人の命は他の何よりも尊い、という言葉も含まれる。ただし、これは20世紀になって口承をもとに書き起こされたもので、どこまでが13世紀の内容をそのまま伝えているかについては議論がある。2009年、ユネスコの無形文化遺産に登録された。
マリは、スンジャタの後継者たちのもとで、大西洋岸からニジェール川の中流域まで、西アフリカの広い地域を治める帝国になった(マリ帝国)。その富の源は、領内やその近くで採れる金だった。14世紀には、マンサ・ムーサがメッカへの巡礼の途中にカイロで大量の金をばらまき、金の値が下がったと伝えられるほどだった(マンサ・ムーサの巡礼)。ニジェール川のほとりのトンブクトゥは、交易とイスラームの学問の町として栄えた。1352年から翌年にかけては、モロッコの旅行家イブン・バットゥータがマリを訪れた(イブン・バットゥータの旅)。その旅行記は、王の宮廷の様子や、旅の安全が保たれていたことを伝えている。首都がどこにあったかは、今もはっきりしない。

マリは15世紀に入ると東のソンガイ(ソンガイ帝国の最盛期)に押されて衰えた。それでも、スンジャタの物語は滅びなかった。グリオは、王の系譜と歴史を記憶し、楽器の伴奏とともに語る家柄の人々で、文字の記録に代わって社会の記憶を担ってきた。1960年、ギニアの歴史家ジブリル・タムシル・ニアヌが、グリオの語りをもとにスンジャタの物語を書き起こして出版し、広く世界に知られるようになった。今も西アフリカでは、婚礼や祭りの場で、グリオがスンジャタの物語を語っている。