できごと

マリ帝国の成立

Founding of the Mali Empire
AD1235年
重要度 4
バントゥー系の人びとトゥアレグの遊牧諸部族西アフリカの穀作農民サバンナの狩猟採集民アマゾンの狩猟採集民ベルベル諸部族アイユーブ朝ファーティマ朝イファト王国ムワッヒド朝マクリアルーム・セルジューク朝マリ帝国アルワカリブの狩猟採集民カネムガーナIbaditesマリTakrurヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1235年ニアニ(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1235年の版図を描いています(22勢力)。

概要

スンジャタが建てた。その物語は文字ではなく語り部によって伝えられ、いまも西アフリカで演じられている。

場所

ニアニ位置は特定されていない(誤差 ±20km)
11.38°N -8.40°E · ギニア(マリ帝国の都とされる)

関わった人(1)

スンジャタ・ケイタ?–AD1255年頃 · 当人

本文

西アフリカの内陸、サハラ砂漠の南の縁にあたるサヘルの地域では、古くから金と塩の交易が国を育ててきた。南の森林地帯の近くで採れる金を、北のサハラで切り出される岩塩と交換し、その金がラクダの隊商で地中海世界へ運ばれた。11世紀までこの交易を握っていたガーナ帝国が衰えると、その跡をめぐって諸勢力が争った。13世紀の初めに強大になったのが、鍛冶師の血統を引くとされるスマオロ・カンテの率いるソソの国である。

ニジェール川の上流には、マンディンカの人々の小さな国々があった。その一つの王家に生まれたのがスンジャタ・ケイタである。その生涯を伝えるのは、主に語り部(グリオ)が代々語り継いできた叙事詩である。父は王、母のソゴロンは容姿に恵まれない女性だったが、王に嫁げば偉大な王を産むという予言のために迎えられた。生まれた子スンジャタは、7歳になっても歩くことができず、母は他の妃たちにあざけられた。ある日、スンジャタは鉄の棒を持ってこさせ、それにすがって立ち上がると、棒は曲がってしまった。立ち上がった少年は、バオバブの木を根こそぎ引き抜いて母のもとへ運んだという。

バクリーの地理書には Melil という地名が確認できる。
バクリーの地理書には Melil という地名が確認できる。Wikimedia Commons William Desborough Cooley · Public domain

父の死後、スンジャタと母は宮廷を追われ、各地を流浪した。そのあいだにソソのスマオロがマンディンカの国々を征服し、人々を苦しめた。人々に呼び戻されたスンジャタは、諸国の兵をまとめてスマオロと戦った。叙事詩では、スマオロは強力な呪術に守られていたが、その弱点を知ったスンジャタの側が、白い雄鶏の蹴爪をつけた矢でその力を破ったとされる。伝承では1235年ごろ、キリナの戦いでソソ軍は敗れ、スマオロは山へ逃げて姿を消した。

叙事詩は史実そのものではないが、北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥーンも、14世紀の著作の中で、マリの王の一人として「マーリー・ジャータ」の名を挙げ、彼がソソを破って国を大きくしたことを記している。スンジャタという人物とその勝利は、口承の外からも裏づけられているのである。

イドリースィーの地理書にも Melil という地名が確認できる。
イドリースィーの地理書にも Melil という地名が確認できる。Wikimedia Commons William Desborough Cooley · Public domain

伝承によれば、勝利の後、スンジャタはクルカン・フガという場所に諸氏族の代表を集め、新しい国の決まりを定めた。どの氏族がどの役目を担うか、氏族どうしがどう助け合い、からかい合うか、争いをどう収めるかが定められたという。後に「マンデン憲章」として伝えられる文言には、人の命は他の何よりも尊い、という言葉も含まれる。ただし、これは20世紀になって口承をもとに書き起こされたもので、どこまでが13世紀の内容をそのまま伝えているかについては議論がある。2009年、ユネスコの無形文化遺産に登録された。

マリは、スンジャタの後継者たちのもとで、大西洋岸からニジェール川の中流域まで、西アフリカの広い地域を治める帝国になった(マリ帝国)。その富の源は、領内やその近くで採れる金だった。14世紀には、マンサ・ムーサがメッカへの巡礼の途中にカイロで大量の金をばらまき、金の値が下がったと伝えられるほどだった(マンサ・ムーサの巡礼)。ニジェール川のほとりのトンブクトゥは、交易とイスラームの学問の町として栄えた。1352年から翌年にかけては、モロッコの旅行家イブン・バットゥータがマリを訪れた(イブン・バットゥータの旅)。その旅行記は、王の宮廷の様子や、旅の安全が保たれていたことを伝えている。首都がどこにあったかは、今もはっきりしない。

マンサ・ムーサの巡礼に関わる図版:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Mansa Musa (cropped)
マンサ・ムーサの巡礼Wikimedia Commons attributed to Abraham Cresques · Public domain

マリは15世紀に入ると東のソンガイ(ソンガイ帝国の最盛期)に押されて衰えた。それでも、スンジャタの物語は滅びなかった。グリオは、王の系譜と歴史を記憶し、楽器の伴奏とともに語る家柄の人々で、文字の記録に代わって社会の記憶を担ってきた。1960年、ギニアの歴史家ジブリル・タムシル・ニアヌが、グリオの語りをもとにスンジャタの物語を書き起こして出版し、広く世界に知られるようになった。今も西アフリカでは、婚礼や祭りの場で、グリオがスンジャタの物語を語っている。

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