コンゴ動乱

概要
独立の直後から内戦と外国の介入が続いた。資源のある国が、独立してなお翻弄される。
場所
-4.44°N 15.27°E · コンゴ民主共和国
本文
コンゴは、19世紀の末にベルギー王レオポルド2世の私有地として始まった植民地である。ゴムの採取のための強制労働と暴力で、多くの人命が失われた(コンゴ自由国)。1908年にベルギー国家の植民地となってからも、統治はベルギー人の手に握られ、コンゴの人々に高い教育を受けさせることはほとんどなかった。初等教育や医療は比較的広まったが、中等教育以上の機会は厳しく限られた。独立の時点で、大学を出たコンゴ人は20人に満たなかったといわれる。軍の将校は全員がベルギー人だった。
1950年代の終わり、アフリカ各地で独立の動きが高まると(アフリカの年)、ベルギーは態度を急変させた。1959年1月、首都レオポルドヴィル(今のキンシャサ)で暴動が起きると、ベルギーは急速に独立へかじを切り、1960年の初めの会議で、わずか数か月後の独立が決まった。1960年5月の選挙で第一党になったのは、全国を一つにまとめる国を目指すパトリス・ルムンバの党だった。6月30日、コンゴは独立し、ルムンバが首相、カサヴブが大統領となった。

独立の式典で、ベルギー国王ボードゥアンは、植民地支配をレオポルド2世の文明化の事業としてたたえた。これに対してルムンバは、予定にない演説に立ち、コンゴの人々が植民地支配の下で受けてきた屈辱と暴力を正面から語った。この演説は、コンゴの人々を熱狂させ、ベルギーと西側諸国を警戒させた。
独立から1週間もたたないうちに、軍の兵士たちがベルギー人の将校に反乱を起こした。ベルギーは自国民の保護を理由に軍を送り込んだ。7月11日には、銅やコバルト、ウランなど鉱物資源の豊かな南部のカタンガ州が、モイーズ・チョンベを指導者として分離独立を宣言した。カタンガの鉱山を握るベルギーの大企業とベルギー軍が、それを支えた。翌月には、ダイヤモンドを産する南カサイも分離を宣言した。

ルムンバは国連に助けを求め、国連は平和維持軍を送った。しかし国連軍はカタンガの分離をすぐには武力で終わらせようとせず、苛立ったルムンバはソ連に輸送機や武器の援助を求めた。冷戦のさなか、アフリカの真ん中にソ連の影響が及ぶことを、アメリカとベルギーは強く恐れた。アメリカの中央情報局は、ルムンバの暗殺まで計画していたことが、のちの議会の調査で明らかになっている。
9月、大統領カサヴブがルムンバを首相から解任し、ルムンバもカサヴブを解任すると宣言して、政府は二つに割れた。その混乱の中で、陸軍の参謀長モブツが実権を握った。ルムンバは軟禁され、脱出を図って捕らえられた。1961年1月、彼は分離を続けるカタンガへ送られ、チョンベ政権の手で、ベルギー人の将校が立ち会う中、銃殺された(ルムンバの殺害)。35歳だった。遺体は掘り出されて酸で溶かされたと、のちに関わったベルギー人が証言している。ベルギー政府は2002年に、殺害への道義的な責任を認めて謝罪した。

国連事務総長ハマーショルドは、カタンガ問題の調停のために現地を飛び回っていた。1961年9月、チョンベとの会談に向かう途中、乗っていた飛行機が北ローデシア(今のザンビア)のンドラの近くで墜落し、ハマーショルドを含む乗員乗客全員が死んだ。事故とされてきたが、撃墜されたのではないかという疑いは消えず、国連は今も調査を続けている。
カタンガの分離は、国連軍の軍事行動によって1963年1月に終わった。しかし翌年には、ルムンバの支持者たちが東部で大規模な反乱を起こし、ベルギー軍がアメリカの輸送機で降下して人質の救出にあたった。1965年には、キューバの革命家チェ・ゲバラも反乱軍を助けようとコンゴ東部に入ったが、成果なく去っている。

1965年11月、モブツが再びクーデターで権力を握った(モブツの独裁)。西側の支援を受けたモブツの独裁は、国名をザイールと改めながら32年続き、国の富は大統領とその取り巻きに吸い上げられた。ルムンバは、アフリカの独立の夢を断たれた殉教者として、今もアフリカ各地で記憶されている。2022年、ベルギーに残されていたルムンバの歯が、家族に返された。