第三次マラーター戦争

概要
マラーター同盟は18世紀にムガルを抑えてインドの半分を持っていた。1803年にウェルズリー(のちのウェリントン)が破り、1817年、ペーシュワーが最後に立った。プネーが落ち、ペーシュワーは降伏して年金をもらい、北インドの町に住んだ。その養子が1857年の大反乱の首謀者ナーナー・サーヒブ。東インド会社は、インドの大半を持った。
場所
18.52°N 73.86°E · インド・マハーラーシュトラ州
本文
マラーターは、17世紀にシヴァージーがデカン高原でムガル帝国に立ち向かって築いた国である。シヴァージーは1674年に王として即位し、その後の国はアウラングゼーブの長い遠征にも耐えて生き延びた。18世紀に入ると実権は王から宰相(ペーシュワー)に移り、ペーシュワーの位はプネーの一族が代々継ぐようになる。マラーターの軍は北インドまで押し出し、弱ったムガルの皇帝を後ろから動かして、インドのおよそ半分を勢力の下に置いた。
ただしマラーターは一つの王国というより、諸侯の同盟だった。プネーのペーシュワーの下に、グワーリヤルのシンディア、インドールのホールカル、バローダのガーイクワード、ナーグプルのボーンスレーが並び、それぞれが自分の軍と領地を持っていた。1761年の第三次パーニーパットの戦いでアフガンのアフマド・シャー・ドゥッラーニーに大敗すると、同盟の結びつきは目に見えて緩み、諸侯どうしの争いが増えていった。

その隙に入り込んだのがイギリス東インド会社である。プラッシーの戦いでベンガルを手に入れた会社は、1775年から1782年の第一次の戦争ではペーシュワーの位争いに口を出したが、決着をつけられずに終わった。1802年、内紛に敗れたペーシュワーのバージー・ラーオ2世は会社に逃げ込み、バセイン条約で会社の軍を国内に置く従属同盟を受け入れる。これに反発したシンディアとボーンスレーとの第二次の戦争(1803〜05年)では、のちにワーテルローでナポレオンを破るアーサー・ウェルズリーがアッサイェで勝ち、レイク将軍がデリーを取って、ムガルの皇帝を会社の「保護」の下に置いた。
最後の戦いは、プネーの駐在官の館から始まった。会社の駐在官エルフィンストーンの干渉に耐えかねたバージー・ラーオ2世は、1817年11月、兵を挙げて駐在官の館を焼き、近くのキルキー(カドキー)で会社の軍とぶつかった。ナーグプルのボーンスレーとインドールのホールカルの軍も立ち上がった。総督ヘイスティングズは、中央インドを荒らしていた略奪の集団ピンダーリーの討伐のために、すでに10万を超える軍を動かしていた。11月にプネーが落ち、ナーグプルのシタバルディでも会社が持ちこたえ、12月にはマヒドプルでホールカルの軍が破れた。

1818年1月1日、ビーマ川のほとりのコレガオンで、800人あまりの会社の部隊が、2万を超えるとされるペーシュワーの軍を一日食い止めた。会社の部隊の多くは、カースト制度の下で不可触民とされたマハールの兵だった。戦場に建てられた記念の柱には、いまも毎年1月1日に多くのダリット(被差別の人々)が集まる。差別する側の支配者を打ち破った祖先の記念とされ、2018年の200年の集まりでは衝突も起きた。
逃げ回ったバージー・ラーオ2世は、1818年6月3日、会社の将軍ジョン・マルコムに降伏した。ペーシュワーの位は廃止され、彼は年80万ルピーの年金を与えられて、ガンジス川のほとりのビトゥールに移された。プネーの領地はボンベイ管区に組み込まれ、マラーターの王家はサーターラーの小さな領地に名だけ残された。シンディア、ホールカル、ガーイクワードは領地を削られて会社に従う藩王国となり、ボーンスレーの国もやがて会社に取り込まれた。

この戦争で、会社はパンジャーブのシク王国とシンドを除くインドの大半を、直接か藩王国を通じて支配する立場になった。シンドは1843年、パンジャーブは1849年に併合される。バージー・ラーオ2世は1851年に死に、会社は養子のナーナー・サーヒブに年金を引き継がせなかった。その恨みを抱いたナーナー・サーヒブは、1857年のインド大反乱でカーンプルの反乱の首領となる。翌年、会社は解散させられ、インドはヴィクトリア女王の国の直接の統治の下に移った。マラーターの最後の戦いは、会社のインド支配の完成であると同時に、その終わりにつながる恨みの始まりでもあった。