できごと

第三次マラーター戦争

Third Anglo-Maratha War
AD1818年6月3日
重要度 4
第三次マラーター戦争に関わる図版:The Last Charge of the 6th Regment of Bengal and the 6th Regiment of Madras Light Cavalry on the 16th December 1817 (cro
The Last Charge of the 6th Regment of Bengal and the 6th Regiment of Madras Light Cavalry on the 16th December 1817 (cro Wikimedia Commons Robert Woolf · Public domain

概要

マラーター同盟は18世紀にムガルを抑えてインドの半分を持っていた。1803年にウェルズリー(のちのウェリントン)が破り、1817年、ペーシュワーが最後に立った。プネーが落ち、ペーシュワーは降伏して年金をもらい、北インドの町に住んだ。その養子が1857年の大反乱の首謀者ナーナー・サーヒブ。東インド会社は、インドの大半を持った。

場所

プネー
18.52°N 73.86°E · インド・マハーラーシュトラ州

本文

マラーターは、17世紀にシヴァージーがデカン高原でムガル帝国に立ち向かって築いた国である。シヴァージーは1674年に王として即位し、その後の国はアウラングゼーブの長い遠征にも耐えて生き延びた。18世紀に入ると実権は王から宰相(ペーシュワー)に移り、ペーシュワーの位はプネーの一族が代々継ぐようになる。マラーターの軍は北インドまで押し出し、弱ったムガルの皇帝を後ろから動かして、インドのおよそ半分を勢力の下に置いた。

ただしマラーターは一つの王国というより、諸侯の同盟だった。プネーのペーシュワーの下に、グワーリヤルのシンディア、インドールのホールカル、バローダのガーイクワード、ナーグプルのボーンスレーが並び、それぞれが自分の軍と領地を持っていた。1761年の第三次パーニーパットの戦いでアフガンのアフマド・シャー・ドゥッラーニーに大敗すると、同盟の結びつきは目に見えて緩み、諸侯どうしの争いが増えていった。

第三次パーニーパットの戦いに関わる図版:The Third battle of Panipat 13 January 1761
第三次パーニーパットの戦いWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

その隙に入り込んだのがイギリス東インド会社である。プラッシーの戦いでベンガルを手に入れた会社は、1775年から1782年の第一次の戦争ではペーシュワーの位争いに口を出したが、決着をつけられずに終わった。1802年、内紛に敗れたペーシュワーのバージー・ラーオ2世は会社に逃げ込み、バセイン条約で会社の軍を国内に置く従属同盟を受け入れる。これに反発したシンディアとボーンスレーとの第二次の戦争(1803〜05年)では、のちにワーテルローでナポレオンを破るアーサー・ウェルズリーがアッサイェで勝ち、レイク将軍がデリーを取って、ムガルの皇帝を会社の「保護」の下に置いた。

最後の戦いは、プネーの駐在官の館から始まった。会社の駐在官エルフィンストーンの干渉に耐えかねたバージー・ラーオ2世は、1817年11月、兵を挙げて駐在官の館を焼き、近くのキルキー(カドキー)で会社の軍とぶつかった。ナーグプルのボーンスレーとインドールのホールカルの軍も立ち上がった。総督ヘイスティングズは、中央インドを荒らしていた略奪の集団ピンダーリーの討伐のために、すでに10万を超える軍を動かしていた。11月にプネーが落ち、ナーグプルのシタバルディでも会社が持ちこたえ、12月にはマヒドプルでホールカルの軍が破れた。

Indian Camp Scene
Wikimedia Commons Rudolph Ackermann · Public domain

1818年1月1日、ビーマ川のほとりのコレガオンで、800人あまりの会社の部隊が、2万を超えるとされるペーシュワーの軍を一日食い止めた。会社の部隊の多くは、カースト制度の下で不可触民とされたマハールの兵だった。戦場に建てられた記念の柱には、いまも毎年1月1日に多くのダリット(被差別の人々)が集まる。差別する側の支配者を打ち破った祖先の記念とされ、2018年の200年の集まりでは衝突も起きた。

逃げ回ったバージー・ラーオ2世は、1818年6月3日、会社の将軍ジョン・マルコムに降伏した。ペーシュワーの位は廃止され、彼は年80万ルピーの年金を与えられて、ガンジス川のほとりのビトゥールに移された。プネーの領地はボンベイ管区に組み込まれ、マラーターの王家はサーターラーの小さな領地に名だけ残された。シンディア、ホールカル、ガーイクワードは領地を削られて会社に従う藩王国となり、ボーンスレーの国もやがて会社に取り込まれた。

1805年のインド(黄色がマラーター同盟)
1805年のインド(黄色がマラーター同盟)Wikimedia Commons Kalpan Smith, Brodus Canne · Public domain

この戦争で、会社はパンジャーブのシク王国とシンドを除くインドの大半を、直接か藩王国を通じて支配する立場になった。シンドは1843年、パンジャーブは1849年に併合される。バージー・ラーオ2世は1851年に死に、会社は養子のナーナー・サーヒブに年金を引き継がせなかった。その恨みを抱いたナーナー・サーヒブは、1857年のインド大反乱でカーンプルの反乱の首領となる。翌年、会社は解散させられ、インドはヴィクトリア女王の国の直接の統治の下に移った。マラーターの最後の戦いは、会社のインド支配の完成であると同時に、その終わりにつながる恨みの始まりでもあった。

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