できごと

ベーリングの海峡

Bering finds the strait
AD1728年
重要度 4
アサバスカ諸族イヌピアット亜寒帯林の狩猟採集民SahtuShoshoniEyaqAssiniboinYup’ik/Cup’ikUteNorthern PaiuteアラパホークロウTetonBlackfootPawneeSuspiaqGros VentreシャイアンネズパースAD1728年ベーリング海峡
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1728年の版図を描いています(19勢力)。

概要

ピョートルが死ぬ3週間前に命じた。「アジアとアメリカはつながっているか」。デンマーク人がカムチャツカで船を造り、北へ。霧で向こう岸は見えなかった。1741年、二度目でアラスカを見て、帰りに島で壊血病で死んだ。海峡、海、島に名が残った。ロシアがアラスカを持つ始まり。

場所

ベーリング海峡
65.80°N -169.00°E · ロシア・アメリカ

関わった人(1)

ヴィトゥス・ベーリングAD1681年–AD1741年12月19日 · 航海

本文

17世紀、ロシアのコサックと毛皮商人たちは、クロテンの毛皮を求めてシベリアを東へ進んだ。イェルマークのシビル汗国征服からわずか60年ほどで、彼らは太平洋の岸に達している。1648年、コサックのセミョン・デジニョフは、北極海に注ぐコリマ川の河口から船で東へ向かい、アジアの東の端の岬を回ってアナディリ川へ出た。アジアとアメリカの間に海があることを、事実上確かめた航海である。だがその報告書はヤクーツクの役所に眠り、1736年に学者が見つけるまで、誰にも知られなかった。

ヨーロッパの学者たちは、アジアとアメリカが陸でつながっているのかどうかを知りたがっていた。西欧に学んだピョートル1世もその一人である。1725年1月、死の数週間前に、ピョートルは自ら指示書を書いた。カムチャツカで船を造り、海岸に沿って北へ進み、アメリカとつながっているかを確かめよ。隊長に選ばれたのは、デンマーク生まれでロシア海軍に仕えるヴィトゥス・ベーリングだった。ピョートルはその年の1月28日(ロシアの旧暦)に死んだ。

かつてヴィトゥス・ベーリングの肖像とされた絵(後の研究では叔父の肖像とされる)
かつてヴィトゥス・ベーリングの肖像とされた絵(後の研究では叔父の肖像とされる)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ベーリングの一行は2月にペテルブルクを出て、シベリアを横断した。船の材料も道具も食料も、川と陸を運ばねばならず、太平洋岸にたどり着くまでに3年かかった。1728年、カムチャツカ半島で「聖ガヴリイル号」を造り、7月に北へ向けて出帆した。8月には後にセントローレンス島と呼ばれる島を見つけ、さらに北へ進んだ。8月13日(旧暦)、北緯67度18分まで達したとき、アジアの海岸は西へ曲がって見えなくなった。ベーリングは、これで陸がつながっていないことは示せたと考え、氷に閉じ込められるのを恐れて引き返した。

ただ、霧のため、東の向こう岸のアメリカは見えなかった。1730年にペテルブルクへ戻ったベーリングは、アメリカを見ていない、陸がつながっていないことを証明していない、と批判された。彼は名誉を回復するため、さらに大きな計画を出す。シベリアの北の海岸をすべて測り、日本へ、アメリカへ船を出す。1733年に始まったこの「大北方探検」には、学者、水夫、兵士、人夫あわせて数千人が加わったとされる。このときベーリングの部下のシュパンベルグは日本の近海に達し、船は陸奥や安房の沖に現れて住民と物を交わした。

ベーリングの第2次航海とコマンドル諸島発見を描いた1966年のソ連切手
ベーリングの第2次航海とコマンドル諸島発見を描いた1966年のソ連切手Wikimedia Commons USSR Post · Public domain

1741年6月、ベーリングは「聖ピョートル号」、部下のチリコフは「聖パーヴェル号」に乗って、カムチャツカのペトロパヴロフスクを出た。二隻は嵐ではぐれ、それぞれアメリカに向かった。7月16日(旧暦)、ベーリングの船から、雪を戴く高い山が見えた。アラスカの聖イライアス山である。同行した博物学者ゲオルク・シュテラーは、近くの島に上陸を許されたが、わずか10時間ほどだった。10年の準備が10時間の調査のためだったのか、とシュテラーは嘆いたという。

帰りの航海は悲惨だった。逆風に阻まれ、壊血病が船を襲った。11月、船は無人の島に乗り上げ、乗組員は砂の穴に身を寄せて冬を越した。ベーリングは12月8日(旧暦、新暦では19日)に死んだ。60歳だった。この島は後にベーリング島と名づけられる。1991年、デンマークとソ連の合同調査で遺骨が掘り出され、歯がよく残っていたことなどから、死因は壊血病ではなく、心臓の病などではないかと考えられるようになった。

1741年、アリューシャン列島で難破したベーリング探検隊の船
1741年、アリューシャン列島で難破したベーリング探検隊の船Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

生き残った者たちは、島の動物で命をつないだ。シュテラーはここで、体長7メートルを超える大きな海牛を観察し、記録した。のちにステラーカイギュウと呼ばれるこの動物は、肉を求める狩人たちに獲り尽くされ、発見から27年後の1768年ごろには姿を消した。翌1742年夏、乗組員たちは船の残骸で小さな船を造り、カムチャツカへ戻った。持ち帰ったラッコの毛皮が高値で売れたことから、毛皮商人たちが島づたいにアラスカへ押し寄せていく。

1799年、ロシア領アメリカを治める露米会社が作られたが、遠く離れた土地は守りきれず、1867年、ロシアはアラスカを720万ドルでアメリカに売った。1778年、イギリスのジェームズ・クックが北太平洋を探って(クックの太平洋航海)、アジアとアメリカを隔てる海峡を、ベーリングにちなんで名づけた。ベーリング海峡、ベーリング海、ベーリング島。氷河期に海面が下がってこの辺りが陸になっていたことから、その陸地は「ベーリンジア」と呼ばれ、人類はここを歩いてアメリカ大陸へ渡ったと考えられている。海峡のアジア側の岬は、いまはデジニョフ岬と呼ばれている。80年早く海峡を通った男の名である。

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