阮朝の成立
概要
ベトナム最後の王朝。フランスの保護国となり、20世紀まで名目上続く。
場所
16.46°N 107.59°E · ベトナム
本文
18世紀のベトナムは、名目の上では黎朝の皇帝のもとにあったが、実際には北の鄭氏と南の阮氏という二つの一族が国を分けて治めていた。両者は17世紀に長く戦い、その後は川を境ににらみ合っていた。南の阮氏は、メコン川の流域へと領土を広げていた。
1771年、中部の西山(タイソン)の村で、三人の兄弟が反乱を起こした。重い税に苦しむ農民を集めた軍はたちまち大きくなり、1777年には南の阮氏の一族をほぼ滅ぼした。兄弟の一人グエン・フエは、1785年にシャムの軍を、1789年には黎朝の皇帝を助けに来た清の大軍を打ち破り、光中帝と名乗った。

阮氏の一族でただ一人生き延びたのが、少年だった阮福暎である。南の島々へ逃れ、シャムに身を寄せながら、再起の機会をうかがった。助けとなったのが、フランス人の宣教師ピニョー・ド・ベーヌだった。司教は阮福暎の幼い息子を連れてフランスへ渡り、王と援助の条約を結んだが、フランスは革命の前夜で約束は果たされなかった。そこで司教は、自分で義勇兵と船、武器を集めて送った。
1792年に光中帝が急死すると、西山朝は崩れ始めた。阮福暎は南のサイゴンを拠点に力を蓄え、西洋式の砦と船を整えて北へ攻め上った。1801年にフエを、1802年にハノイを落とし、ベトナムの南北を初めて一つにまとめた。元号を嘉隆と定め、嘉隆帝となる。

新しい王朝は国の名を「南越」として清に認めてもらおうとしたが、清はかつて南越という国が中国の南部まで治めていたことを嫌い、文字を入れ替えて「越南」とした。1804年のことで、ベトナムという国名はここに始まる。
都は中部のフエに置かれた。川のほとりに、西洋の築城術を取り入れた稜堡を持つ城壁を築き、その内側に北京の紫禁城を手本にした宮城を造った。法は清の律を手本に編まれ、科挙で官僚を選び、儒教を国の教えとした。二代目の明命帝は中央の力をさらに強め、国の名を「大南」と改めている。
明命帝の時代から、キリスト教への締めつけが厳しくなった。宣教師や信者が捕らえられ、処刑される者も出た。父の代に王朝を助けたフランスは、これを口実にして介入してくる。1858年、フランスとスペインの艦隊がダナンを攻撃した。翌年にはサイゴンが落ち、1862年には南部の三つの省がフランスに割き取られた。
阮朝は、西のカンボジアをめぐってシャムとも争った。明命帝はカンボジアの宮廷を事実上支配下に置き、ベトナム風の役所と服装を押しつけたため、激しい反発を招いた。1840年代にはシャムとの長い戦いの末、カンボジアを両国がともに後見する形で手を打っている。
1883年から翌年にかけて結ばれた条約で、ベトナムはフランスの保護国になった。清はこれを認めず清仏戦争となったが、1885年の条約で手を引いた。1887年、ベトナムはカンボジアとともにフランス領インドシナに組み込まれた。若い咸宜帝は都を逃れて抵抗を呼びかけたが、捕らえられてアルジェリアへ流された。
王朝は名目上残された。フランスは、自分たちで直接治めるより、皇帝と官僚の仕組みを使うほうが安上がりだと考えたのである。皇帝はフエの宮殿にとどまり、儀式を行い、フランスの決めたことに印を押した。
1945年8月、日本の敗戦の直後、最後の皇帝バオダイは退位し、王朝の印をベトミンに渡した。翌月の2日、ホー・チ・ミンがハノイで独立を宣言する(ベトナム民主共和国の独立宣言)。1802年から143年続いた王朝だったが、外から干渉を受けずに国を治められたのは、最初の60年足らずだった。フエの城と歴代皇帝の陵は、1993年に世界遺産になっている。
保護国の時代にも、抵抗は形を変えて続いた。20世紀の初め、ファン・ボイ・チャウは、日露戦争に勝った日本に学ぼうと、若者たちを日本へ留学させる運動を起こした。しかし日本はフランスとの協約を結んで留学生を国外へ退去させ、運動は数年でついえた。フランスがインドシナから去るのは、王朝が終わった後の1954年のことになる(ディエンビエンフーの戦い)。