テ・ラウパラハ
概要
マスケット銃を早くに取り入れ、ニュージーランドの勢力図を塗り替えた。彼の作ったハカがいまも歌われている。
関わったできごと(1)
ワイタンギ条約AD1840年2月6日 · 署名した首長の一人本文
テ・ラウパラハは1760年代、ニュージーランド北島の西岸、カーウィアの港のあたりに生まれた。父はンガーティ・トアの首長の家系、母は南に住むンガーティ・ラウカワの出だった。生まれたころ、イギリスのジェームズ・クックが初めてこの島々の沿岸を巡っている(クックの太平洋航海)。マオリの社会に、ヨーロッパの品物と病と銃が入ってくるのは、彼の生涯のあいだのことである。

テ・ラウパラハは、生まれついての最高首長ではなかった。若いころから戦いで名を上げ、知恵と弁舌で人々の信頼を得て、ンガーティ・トアを率いる立場に上った。小柄だったが、抜け目なく、機を見るのに長けた人物として語り継がれている。
19世紀の初め、ヨーロッパの捕鯨船や交易船が島々に寄るようになると、マオリはジャガイモや豚、そしてニュージーランドの亜麻の繊維と引き換えに、マスケット銃を手に入れ始めた。最初に大量の銃をそろえたのは、北部のンガープヒの首長ホンギ・ヒカだった。銃を持つ部族が持たない部族を襲い、襲われた部族は銃を求めて別の部族を襲った。1810年代から1840年ごろまで続いたこの時期は「マスケット戦争」と呼ばれ、死者は2万人を超えたとも推定される。

ンガーティ・トアの住むカーウィアは、北のワイカトの強大な部族に圧迫されていた。テ・ラウパラハはついに故郷を捨てる決断をした。1820年代の初め、一族を率いて北島の西岸を南へ下る長い移住の旅に出た。途中で、のちに有名になる出来事が起きる。敵に追われた彼は、ロトアイラ湖のほとりの首長テ・ワレランギのもとへ逃げ込んだ。首長は彼をクマラ(サツマイモ)を蓄える穴に隠し、首長の妻がその穴の上に座った。追っ手は、女性の下にあるものに手を出すことができず、引き返した。穴から出たテ・ラウパラハが、死ぬのか、死ぬのか、生きるのか、生きるのか、と叫んで踊ったのが、ハカ「カ・マテ」だと伝えられる。歌の終わりに出てくる「毛深い男」は、自分をかくまった首長を指すとされる。
南へ移ったンガーティ・トアは、北島の南西岸と、その沖のカピティ島に根を下ろした。カピティ島はクック海峡をにらむ要の位置にあり、ここに寄る捕鯨船との交易で、テ・ラウパラハはさらに銃を集めた。そこから海峡を渡って南島の北部へ攻め込み、さらに南の大部族ンガイ・タフの土地へも遠征した。1830年には、イギリスの商船の船長に亜麻の積み荷を約束して船を雇い、兵をひそませて南島東岸のアカロアへ運ばせ、ンガイ・タフの首長を捕らえて殺した。この事件はシドニーで大問題となり、イギリスがニュージーランドの無法に手を打たなければならないと考えるきっかけの一つになった。1831年ごろにはンガイ・タフの要塞カイアポイを、長い包囲の末に落としている。
1840年、イギリスとマオリの首長たちのあいだでワイタンギ条約が結ばれ、テ・ラウパラハも署名した。だが入植者の会社は、彼が売った覚えのない土地まで買ったと言い張った。1843年、南島北部のワイラウの谷で、土地を測量しようとした入植者たちと、テ・ラウパラハや甥のテ・ランギハエアタの一団が衝突した。入植者側は22人が死に、マオリ側も、テ・ラウパラハの娘でテ・ランギハエアタの妻だったテ・ロンゴらが殺された。総督フィッツロイは、入植者の側に非があったと判断した。

だが後任の総督ジョージ・グレイは、テ・ラウパラハを危険な人物とみなした。各地で入植者とマオリの争いが起きていた時期である(ニュージーランド戦争)。1846年7月、グレイは夜明けにテ・ラウパラハを捕らえ、裁判にかけないまま軍艦などに10か月あまり拘束した。解放されたのは1848年。年老いた首長はオタキの地に戻り、翌1849年11月27日に死んだ。80歳を超えていたとされる。晩年はキリスト教に関心を寄せ、息子のタミハナは宣教師に学んで、オタキにランギアーテア教会を建てることに力を注いだ。
テ・ラウパラハは、銃と移住によって北島南部と南島北部の勢力図を塗り替えた。その征服は、ンガイ・タフをはじめ多くの部族に深い傷を残し、評価はいまも部族によって大きく異なる。一方、穴から生還した日のハカは、ニュージーランドのラグビー代表が20世紀の初めから試合前に踊るようになり、世界で最も知られたマオリの歌になった。ンガーティ・トアはその作者が自分たちの祖先であることを認めるよう求め、2009年に政府と合意し、2014年に法律でその帰属が定められた。