クレイディオンの戦い

概要
バシレイオス2世が30年の戦争の決着をつけた。谷の柵を裏から回って、1万5000人を捕えた。100人ごとに片目を残して、他は両目を潰して、サムイルの所へ帰した。サムイルは列を見て倒れ、2日後に死んだ。4年後、ブルガリアはビザンツの州になった。
場所
41.40°N 23.00°E · ブルガリア
関わった人(2)
バシレイオス2世AD958年–AD1025年12月15日 · 皇帝サムイル?–AD1014年10月6日 · 倒れた本文
1014年7月29日、いまのブルガリアと北マケドニア、ギリシアの国境が接するあたり、ベラシツァ山の谷間の隘路クレイディオンで、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝バシレイオス2世がブルガリアの皇帝サムイルの軍を破った。この戦いの後に行われた捕虜の扱いは、中世ヨーロッパで最も残酷な場面の一つとして語り継がれている。
ブルガリアは、7世紀の終わりにドナウ川の南に建てられた国で、9世紀の後半にはキリスト教を受け入れ(ブルガリアの改宗)、10世紀の初めにはシメオン1世のもとでコンスタンティノープルを脅かすほどの大国になった(第一次ブルガリア帝国)。しかし10世紀の後半、東ローマの攻勢とキエフ・ルーシの侵入によって、東ブルガリアは971年に東ローマに併合された。残った西部で、地方の有力者の4兄弟(コメトプロイ)が抵抗を続け、その末弟のサムイルが国をまとめて、のちに皇帝を名乗った。都はマケドニア地方のオフリドやプレスパに置かれた。

東ローマでは、867年のマケドニア朝の始まりから続く王家の若い皇帝バシレイオス2世が、976年に実権を握ったばかりだった。986年、バシレイオスは自ら軍を率いてブルガリアに攻め込んだが、帰り道、トラヤヌスの門と呼ばれる峠でサムイルの待ち伏せに遭い、大敗して命からがら逃げ帰った。この屈辱を、バシレイオスは忘れなかったと言われる。
その後しばらく、バシレイオスは国内の大貴族の反乱を鎮めるのに追われ、サムイルはその間に領土を広げた。北はドナウ、西はアドリア海、南はテッサリアまで、ブルガリアは再び大国になった。

1001年ごろから、バシレイオスの反撃が本格的に始まった。毎年のように春にブルガリアに入って城を落とし、村を焼き、冬になる前に引き上げる。東部のブルガリアの町々は一つずつ東ローマの手に戻っていった。戦いは長く、互いに疲れ切っていた。サムイルとバシレイオスの戦いは、30年近くに及んでいた。
1014年の夏、サムイルはストルマ川の支流が流れる谷、クレイディオン(ギリシア語で「鍵」の意)を、木の柵と土塁で塞いだ。東ローマ軍がマケドニアの中心部へ入る道を断つためである。バシレイオスは正面から柵を攻めたが、ブルガリア軍は高所から守り、突破できなかった。そこでプロヴディフの総督ニケフォロス・クシフィアスが、一隊を率いて山を大きく回り込んだ。7月29日、クシフィアスの部隊がブルガリア軍の背後に現れた。前後から挟まれたブルガリア軍は崩れた。サムイルは息子のガブリル・ラドミルに助けられて馬で逃れ、プリレプの城にたどり着いた。

東ローマの年代記作者ヨハネス・スキュリツェスによれば、捕らえられたブルガリア兵は1万5000人(一説に1万4000人)にのぼった。バシレイオスは捕虜たちの目を潰させた。100人ごとに1人だけ片方の目を残し、その者が残る99人を率いてサムイルのもとへ帰るようにした。光を失った兵の長い列がプリレプに着いたのは秋のことである。サムイルはその姿を見て気を失って倒れ、2日後に死んだとスキュリツェスは書く。10月6日のことで、心臓の発作だったと考えられている。
この数字と場面は、スキュリツェスの記述にほぼ頼っている。彼は戦いから半世紀以上のちの11世紀後半に書いており、1万5000という数をそのまま信じてよいかどうかは、研究者の間でも疑問が出されている。それでも、大量の捕虜が目を潰されて送り返されたこと自体は、事実として受け止められている。

サムイルの死後、ブルガリアは内側から崩れた。後を継いだガブリル・ラドミルは、1015年に従兄弟のイヴァン・ヴラディスラフに殺された。イヴァンは抵抗を続けたが、1018年の初め、アドリア海岸のデュラキオン(いまのアルバニアのドゥラス)を囲んでいる最中に戦死した。残された皇后マリアと貴族たちは、バシレイオスに降伏した。バシレイオスはオフリドに入り、ブルガリアの宮廷の宝物を手に入れた。7世紀以来、およそ340年続いた第一次ブルガリア帝国は、こうして東ローマに併合された。
バシレイオスはそのあと南へ下り、アテネを訪れて、当時は聖母に捧げられた教会になっていたパルテノンで、勝利を神に感謝した。
征服のあとのバシレイオスの統治は、意外なほど穏やかだった。彼はブルガリアの人々に、それまでの慣習どおり、税を貨幣ではなく穀物などの現物で納めることを許した。ブルガリアの貴族には東ローマの位を与えて帝国の貴族に取り込み、オフリドの大主教座も残して、ブルガリアの教会に一定の独立を認めた。目潰しの残酷さと、征服後の寛容さが、同じ皇帝の中に並んでいた。
バシレイオスには「ブルガロクトノス」(ブルガリア人殺し)というあだ名がある。しかしこの呼び名は、彼の生前に使われた記録がなく、12世紀に入ってから広まったものとされる。東ローマが再び外敵に苦しむようになった時代に、強い皇帝の記憶として持ち出されたのだろうと考えられている。バシレイオスは1025年に死ぬまで、半世紀近く帝位にあり、東ローマの領土は彼のもとで最も広くなった。生涯結婚せず、子を残さなかった。
ブルガリアが再び独立するのは、1185年、アセンとペタルの兄弟が東ローマに対して反乱を起こしてからである。それまでの170年ほど、ブルガリアという国は地図の上から消えていた。クレイディオンの戦いは、ブルガリアでは長く民族の悲劇として記憶され、北マケドニアでもサムイルは国の英雄として扱われている。サムイルの国をどちらの国の歴史として語るかは、いまも両国の間で論争の種になっている。