できごと

南越の征服

Han conquest of Nanyue
BC111年
重要度 4
前漢スキタイ匈奴テュルク系の諸部族月氏タイ系の人びとバクトリアマレー系の人びとツングース系の人びとモン・クメール系の人びとパプアの人びとシャンシュン王国Min-YueアイヌNan-Yue鉄器時代の首長制社会シンハラBC111年番禺(南越)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC111年の版図を描いています(17勢力)。

概要

趙佗が建てた南越は5代93年。丞相呂嘉が漢に服そうとした王と太后を殺し、武帝が10万で攻めた。番禺が焼けた。九郡。広東、広西、ベトナム北部が漢の郡になった。ベトナムは1000年、中国だった。趙佗の墓は分からず、孫の墓が1983年に広州のホテルの工事で出た。

場所

番禺(南越)
23.13°N 113.26°E · 中国・広東省広州

関わった人(1)

漢の武帝BC156年–BC87年 · 攻めた

本文

紀元前214年、中国を統一した始皇帝は、五嶺の山並みの南、いまの広東・広西からベトナム北部にかけての嶺南の地に軍を送り、南海・桂林・象の三つの郡を置いた。山を越えて兵と物資を運ぶため、長江の水系と珠江の水系を結ぶ運河まで掘られた。南海郡の役人として残った者の中に、北の真定(いまの河北省)出身の趙佗がいた。

秦の始皇帝が死に、中国が反乱で乱れると、南海郡の長官の任囂は死の床で趙佗を呼び、秦はもう長くない、嶺南は山と海に守られているので、ここで国を立てられる、と言い残した。趙佗は北へ通じる関所を閉じて道を断ち、秦の役人を除き、桂林と象の郡も併せて、紀元前204年ごろ南越武王を名乗った。都は南海郡の番禺、いまの広州である。北から来た趙佗は、土地の越人の髪型や風習に従い、越人の有力者を重く用いて国をまとめた。

武帝(劉徹)の肖像
漢の武帝Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

中国を再び統一した漢の高祖は、紀元前196年、弁舌の士の陸賈を送り、趙佗を南越王に任じて漢の臣下とした。だが高祖の死後、実権を握った呂后が南越への鉄器や家畜の輸出を禁じると、趙佗は怒って南越武帝と称し、北の長沙国に攻め込んだ。漢の文帝の時代になると、陸賈が再び南越へ赴き、趙佗は帝の称号をやめて漢に従うと誓った。もっとも、国の中では帝を名乗り続けたとされる。趙佗は紀元前137年ごろ死んだ。100歳を超えていたと伝えられる。

跡を継いだ孫の趙眜(文王)は、北の漢に気を配りながら国を保った。その子の趙嬰斉は、若いころ人質として長安で暮らし、邯鄲出身の樛氏を妻にした。王となった嬰斉が死ぬと、樛氏の産んだ幼い趙興が王となり、樛氏は太后として政治に関わった。一方、南越では三代の王に宰相として仕えた越人の呂嘉が、一族を王家と縁組みさせ、王をしのぐ力を持っていた。

南村万博駅(広州地下鉄7号線)
南村万博駅(広州地下鉄7号線)Wikimedia Commons Wikiwakhan · CC0

紀元前113年、漢の漢の武帝は、使者として安国少季を南越に送った。安国少季は、樛太后が長安にいたころに親しかった男だった。太后は漢の力を頼み、南越を漢の内側の諸侯と同じ扱いにするよう求めた。国を漢に差し出すことに等しい。越人の多くは中国から来た太后を嫌い、呂嘉は強く反対した。紀元前112年、呂嘉は兵を挙げて王と太后と漢の使者を殺し、嬰斉が越人の妻との間にもうけた趙建徳を王に立てた。武帝が最初に送った2000の兵は、呂嘉の軍に討ち取られた。

武帝は大軍を動かした。その秋、伏波将軍の路博徳、楼船将軍の楊僕らが率いる10万とされる兵が、陸路と水路の五つの道から南へ向かった。紀元前111年の冬、漢の軍は番禺に迫った。楊僕は城に火を放ち、路博徳は陣を構えて降る者を受け入れた。城内の人々は路博徳のもとに降り、逃げた呂嘉と趙建徳も捕らえられた。南越は趙佗の建国から5代、90年あまりで滅んだ。

武帝はその地に、南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南、珠崖、儋耳の九つの郡を置いた。いまの広東と広西、海南島、そしてベトナムの北部から中部にかけての土地が、漢の直接の支配に入った。ベトナムではここから、中国の王朝の支配が千年あまり続く時代が始まる。紀元40年の徴姉妹の蜂起のような抵抗をはさみながら、ベトナムが独立を取り戻すのは、938年に呉権が白藤江の戦いで南漢の軍を破ってからのことである。

南越の評価は、中国とベトナムで分かれてきた。15世紀のベトナムの史書は、趙佗の南越をベトナム人の王朝の一つとして扱った。北の大国に対して帝を称した王を、自分たちの祖先の側に置いたのである。だが20世紀以降のベトナムの歴史家の多くは、趙佗を北から来た侵略者とみている。国の名の「越南」(ベトナム)も南越と関わりがある。1802年に阮朝を開いた嘉隆帝が「南越」の国号を求めたところ、清は趙佗の古い国を思わせるとしてこれを避け、文字を入れ替えた「越南」の名を与えた。

1983年、広州の象崗山で建物の工事中に、山の中をくり抜いて造られた大きな墓が見つかった。墓の主は趙眜で、「文帝行璽」と刻まれた金の印が出てきた。漢に従いながら、国の中では帝と称していたことが、この印で確かめられた。遺体は2000枚を超える玉の板を絹で綴った衣に包まれ、殉葬された人々の骨も見つかった。跡地は博物館になっている。一方、趙佗の墓は見つかっていない。三国時代の呉の孫権が人を送って探させたが見つからなかった、という話も伝わっている。

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