南越の征服
概要
趙佗が建てた南越は5代93年。丞相呂嘉が漢に服そうとした王と太后を殺し、武帝が10万で攻めた。番禺が焼けた。九郡。広東、広西、ベトナム北部が漢の郡になった。ベトナムは1000年、中国だった。趙佗の墓は分からず、孫の墓が1983年に広州のホテルの工事で出た。
場所
23.13°N 113.26°E · 中国・広東省広州
関わった人(1)
漢の武帝BC156年–BC87年 · 攻めた本文
紀元前214年、中国を統一した始皇帝は、五嶺の山並みの南、いまの広東・広西からベトナム北部にかけての嶺南の地に軍を送り、南海・桂林・象の三つの郡を置いた。山を越えて兵と物資を運ぶため、長江の水系と珠江の水系を結ぶ運河まで掘られた。南海郡の役人として残った者の中に、北の真定(いまの河北省)出身の趙佗がいた。
秦の始皇帝が死に、中国が反乱で乱れると、南海郡の長官の任囂は死の床で趙佗を呼び、秦はもう長くない、嶺南は山と海に守られているので、ここで国を立てられる、と言い残した。趙佗は北へ通じる関所を閉じて道を断ち、秦の役人を除き、桂林と象の郡も併せて、紀元前204年ごろ南越武王を名乗った。都は南海郡の番禺、いまの広州である。北から来た趙佗は、土地の越人の髪型や風習に従い、越人の有力者を重く用いて国をまとめた。

中国を再び統一した漢の高祖は、紀元前196年、弁舌の士の陸賈を送り、趙佗を南越王に任じて漢の臣下とした。だが高祖の死後、実権を握った呂后が南越への鉄器や家畜の輸出を禁じると、趙佗は怒って南越武帝と称し、北の長沙国に攻め込んだ。漢の文帝の時代になると、陸賈が再び南越へ赴き、趙佗は帝の称号をやめて漢に従うと誓った。もっとも、国の中では帝を名乗り続けたとされる。趙佗は紀元前137年ごろ死んだ。100歳を超えていたと伝えられる。
跡を継いだ孫の趙眜(文王)は、北の漢に気を配りながら国を保った。その子の趙嬰斉は、若いころ人質として長安で暮らし、邯鄲出身の樛氏を妻にした。王となった嬰斉が死ぬと、樛氏の産んだ幼い趙興が王となり、樛氏は太后として政治に関わった。一方、南越では三代の王に宰相として仕えた越人の呂嘉が、一族を王家と縁組みさせ、王をしのぐ力を持っていた。

紀元前113年、漢の漢の武帝は、使者として安国少季を南越に送った。安国少季は、樛太后が長安にいたころに親しかった男だった。太后は漢の力を頼み、南越を漢の内側の諸侯と同じ扱いにするよう求めた。国を漢に差し出すことに等しい。越人の多くは中国から来た太后を嫌い、呂嘉は強く反対した。紀元前112年、呂嘉は兵を挙げて王と太后と漢の使者を殺し、嬰斉が越人の妻との間にもうけた趙建徳を王に立てた。武帝が最初に送った2000の兵は、呂嘉の軍に討ち取られた。
武帝は大軍を動かした。その秋、伏波将軍の路博徳、楼船将軍の楊僕らが率いる10万とされる兵が、陸路と水路の五つの道から南へ向かった。紀元前111年の冬、漢の軍は番禺に迫った。楊僕は城に火を放ち、路博徳は陣を構えて降る者を受け入れた。城内の人々は路博徳のもとに降り、逃げた呂嘉と趙建徳も捕らえられた。南越は趙佗の建国から5代、90年あまりで滅んだ。
武帝はその地に、南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南、珠崖、儋耳の九つの郡を置いた。いまの広東と広西、海南島、そしてベトナムの北部から中部にかけての土地が、漢の直接の支配に入った。ベトナムではここから、中国の王朝の支配が千年あまり続く時代が始まる。紀元40年の徴姉妹の蜂起のような抵抗をはさみながら、ベトナムが独立を取り戻すのは、938年に呉権が白藤江の戦いで南漢の軍を破ってからのことである。
南越の評価は、中国とベトナムで分かれてきた。15世紀のベトナムの史書は、趙佗の南越をベトナム人の王朝の一つとして扱った。北の大国に対して帝を称した王を、自分たちの祖先の側に置いたのである。だが20世紀以降のベトナムの歴史家の多くは、趙佗を北から来た侵略者とみている。国の名の「越南」(ベトナム)も南越と関わりがある。1802年に阮朝を開いた嘉隆帝が「南越」の国号を求めたところ、清は趙佗の古い国を思わせるとしてこれを避け、文字を入れ替えた「越南」の名を与えた。
1983年、広州の象崗山で建物の工事中に、山の中をくり抜いて造られた大きな墓が見つかった。墓の主は趙眜で、「文帝行璽」と刻まれた金の印が出てきた。漢に従いながら、国の中では帝と称していたことが、この印で確かめられた。遺体は2000枚を超える玉の板を絹で綴った衣に包まれ、殉葬された人々の骨も見つかった。跡地は博物館になっている。一方、趙佗の墓は見つかっていない。三国時代の呉の孫権が人を送って探させたが見つからなかった、という話も伝わっている。