物語

『地中海』で読む歴史

出てくるできごと AD1347 – AD1949
できごと 7人物 2国 3
この物語に出てくる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
この物語に出てくるコンスタンティノープル陥落から。Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017 Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

概要

歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。

この物語について

『地中海』(フェルナン・ブローデル、1949年、日本語版1991〜95年)は、16世紀後半の地中海を扱う。だが、この本が有名なのは中身より、その組み立て方になる。歴史はいくつの速さで動いているのか。王の決断と、山の斜面に暮らす羊飼いの一年と、海の気候とは、同じ時間の中にあるのか。本はそう問う。

書いたのは、戦争の捕虜だった。フェルナン・ブローデルはフランス東部ロレーヌの村に生まれ、1920年代から10年近くアルジェリアの高校で教えた。南から地中海を見たその年月が、この海を一つのまとまりとして考える出発点になったと、本人は振り返っている。1940年、将校として従軍していて捕虜になり、ドイツのマインツ、のちにリューベックの収容所で5年を過ごす。手元に資料はほとんど無い。それまで集めた古文書の記憶だけで原稿を書き、書きためた帳面をパリの歴史家リュシアン・フェーヴルのもとへ送ったとされる。フェーヴルは1929年にマルク・ブロックと雑誌『アナール』を興した人で、国家と戦争の年代記ではない歴史を唱えていた。ブロックは対独抵抗運動に加わり、1944年にドイツ軍に銃殺されている。ブローデルが収容所で書いていた頃、この新しい歴史の学派そのものが、戦争に引き裂かれていた。原稿は戦後に博士論文として審査を通り、1949年に『地中海』の刊行となる。

マインツ大学(正式名称は「ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ」)。2006年1月撮影
フェルナン・ブローデルWikimedia Commons Patrick R. Nisch · CC BY 2.5

序文で著者は、この海を情熱をこめて愛してきたと書いている。一人の王でも一つの国でもなく、海そのものを主人公に据える。それがこの本の最初の選択だった。

本は三部に分かれている。第I部は、山と平野と海と気候。冬と夏で山と麓を往き来する羊の群れ、マラリアの湿地、冬の嵐で航海が止まる季節。人の一生では動いたと感じられないほど遅い時間になる。本はまず海ではなく山から始める。山は貧しく、人があふれ、その人は兵や出稼ぎや移民として平野と町へ下りていく。海も一つではなく、いくつもの小さな海のつながりとして描かれる。船は沖へ出ず、岸を見ながら港から港へ進んだ。本の言う地中海は、オリーブの木が育つ範囲を芯に、サハラの隊商路と大西洋の港までを含む「大きな地中海」だった。第II部は、経済、国家、社会、文明。人口、物価、銀の流れ、帝国の財政。数十年から数百年の周期で動く時間になる。第III部でようやく、王と戦争と外交、つまり普通の歴史の書き方が出てくる。著者はその事件の歴史を、深い流れが背に乗せて運ぶ「表面の泡」にたとえた。

いちばん遅い層には、14世紀の黒死病が残した傷がある。人口は大きく減り、そこから150年あまりかけて回復していく。16世紀の地中海は、その回復の波の上にあった。人が増え、穀物が足りなくなり、シチリアやエジプトの小麦が海を渡り、物価が上がる。この時代の帝国の野心も海賊の横行も、その長い波を抜きには説明できない、というのが本の順序になる。

ゆっくり動く層では、海の東と西に二つの帝国が並び立つ。1453年のコンスタンティノープル陥落で、オスマン帝国は地中海の帝国になった。西ではスペインが、イタリアの半分と新大陸を抱える帝国になる。1492年のコロンブスの到達から半世紀後、アンデスでポトシ銀山の開発が始まり、セビーリャに着いた銀はジェノヴァの銀行家を通って地中海じゅうに流れ、物価を押し上げ、スペイン王の戦費になった。王は銀を担保にジェノヴァの銀行家から借り、返せなくなるたびに支払いを止めた。大西洋が開けたことは、すぐには地中海を寂れさせなかった。香辛料はレヴァントを通る道でも16世紀半ばにふたたび運ばれ、ヴェネツィアは商いを続けた。地中海の衰えは通説より遅く、17世紀に入ってからだ、とブローデルは論じた。

第II部の終わりには、文明どうしの境目も描かれる。スペインに残ったイスラーム教徒の子孫モリスコは、改宗を強いられても言葉と習慣を手放さず、1609年から国外へ追放された。本は、文明の境目は国境よりずっと動きにくく、何世代もかけてしか動かないものとして描いた。海賊もこの層の話になる。アルジェを拠点にした船も、マルタの騎士団の船も、大国の艦隊が引き上げたあとの海で、小さな戦争を続けた。

そのうえで、ようやく事件が来る。第III部は、1550年代からの両帝国のぶつかり合いを年を追って描く。1560年、スペインの艦隊はチュニジア沖のジェルバ島で大敗した。1565年には、オスマン軍がマルタ島を4か月近く囲んだが、聖ヨハネ騎士団が守り抜き、援軍が来て包囲は解かれた。そして1571年のレパントの海戦で、スペインとヴェネツィアと教皇の連合艦隊はオスマン艦隊を破った。ヨーロッパでは長く大勝利として語られてきたが、オスマン側は翌年には艦隊を建て直している。本はこの海戦を、勝敗そのものより、そのあと何が変わらなかったかで読む。1570年代の終わりから、二つの帝国は休戦を重ね、互いに背を向けていく。オスマンはペルシアとの戦争へ、スペインはポルトガル併合と北の海へ。1588年のアルマダの海戦は、スペインの目がすでに大西洋とイングランド、ネーデルラントへ向いていたことを示す。地中海は、大国どうしがぶつかる舞台ではなくなっていった。

レパントの海戦に関わる図版:Laureys a Castro - The Battle of Lepanto
レパントの海戦Wikimedia Commons Laureys a Castro · Public domain

本の題にはフェリペ2世の名がある。原題は「フェリペ2世時代の地中海と地中海世界」である。だが王は主人公ではない。エル・エスコリアルの机で書類を読み続けた王は、本の中では、自分ではどうにもならない距離と時間の中で決断を遅らせる一人の人間として出てくる。手紙が帝国の端から届くまでに何週間もかかる。その遅さそのものが、王の政治を縛っていた。本は、知らせが地中海を渡る速さを何通もの手紙の日付から見積もり、距離こそが「第一の敵」だったと書いている。本は1598年の王の死で終わる。

この本が変えたのは、何を歴史と呼ぶかだった。ブローデルは戦前、ブラジルのサンパウロに新しくできた大学でも教えており、ヨーロッパの外から歴史を見る目を早くから持っていた。彼は1956年から『アナール』を率い、のちに人文科学の研究所を作って、長い持続(ロング・デュレ)という考え方を広めた。晩年には同じ方法で15〜18世紀の世界の経済を書き、それが物語「『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層」になる。1966年の第二版では大きく書き直し、数字と地図を増やした。1972年に英語訳が出ると、フランスの外でも広く読まれ、地域の研究者たちが自分の海や平原について同じ組み立てで書くようになった。著者は1985年に死んだ。最後に取り組んでいたのは、同じ方法でフランスそのものを描く仕事で、未完のまま死後に刊行されている。

批判もある。三つの層がうまくつながっていない、事件の部が他の二部と切り離されて置かれているだけだ、という指摘がある。人間の意志の入る余地が小さすぎる、という声もある。それでも、海そのものを主人公にした歴史書は、これより前には無かった。

この物語は、本が扱ったできごとを、その三部に沿って並べたものになる。本文は写していない。年表の上ではレパントの海戦は大きな一点に見えるが、その下に、羊の群れと小麦の船と銀の流れが、もっと長い時間で動いていた。いまの私たちのニュースも、たいていは泡の高さで語られている。

動画(1)

Dr. Darren Staloff, Fernand Braudel's "On History"Michael Sugrue「長い時間」という考え方そのものを説明する講義

この物語が起きた場所

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できごと6件が起きた6か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はAD1949の版図(この枠に大きく入る50勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと6件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(12)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. ヴェネツィア共和国国AD697年(最初のドージェの選出。伝承) – AD1797年(ナポレオンによる解体)潟の上に建った都市が、1100年続いた。東ローマの属領から始まり、第四回十字軍で帝都を略奪し、地中海東部の海を握った。ナポレオンが一言で終わらせる。
  2. オスマン帝国国AD1299年頃 – AD1922年(スルタン制の廃止)地中海のもう半分アナトリア北西の小さな君侯国から始まり、コンスタンティノープルを落とし、三大陸にまたがった。19世紀に外から削られ、第一次世界大戦の敗戦で解体する。
  3. 黒死病できごと1347年第I部。人口と土地という、いちばん遅い時間ヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
  4. コンスタンティノープル陥落できごとAD1453年5月29日第II部。帝国の形が変わるオスマン帝国が1100年続いた東ローマを滅ぼした。中世の終わりの目印として使われる。コンスタンティノープル
  5. コロンブスの到達できごとAD1492年10月12日第II部。重心が大西洋へ移りはじめる二つの大陸が結ばれた。人・作物・家畜・病原体が行き来し、両側の世界が作り替えられる。サン・サルバドル島(位置は特定されていない)
  6. スペイン帝国国AD1492年(グラナダ陥落とコロンブスの航海) – AD1898年(米西戦争で最後の海外領土を失う)アメリカ大陸の銀を運び、太平洋を横断する定期航路を持った最初の帝国。その銀は中国まで流れ、世界の物価を動かした。19世紀に大陸の領土をほぼ失う。
  7. フェリペ2世人物AD1527年5月21日 – AD1598年9月13日本の主人公と言われるが、扱いは大きくない父の帝国の半分と、ポルトガルとフィリピンを継いだ。「日の沈まぬ帝国」の王で、エスコリアルの机で世界を書類で治めた。レパントで勝ち、ネーデルラントを失い、アルマダを失い、4度破産した。イングランド女王メアリの夫でもあった。
  8. ポトシ銀山の開発できごとAD1545年第II部。銀の流れ南米の銀がヨーロッパを経て中国へ流れた。世界で最初の、地球を回るお金の流れ。ポトシ
  9. レパントの海戦できごとAD1571年10月7日第III部。この本ではごく短い一節になるオスマンの無敵の評判が地中海で崩れた。ただし帝国そのものはこの後も長く続く。レパント(位置は特定されていない)
  10. アルマダの海戦できごとAD1588年第III部スペインの無敵艦隊が敗れた。イングランドが海洋国家へ向かう転機になる。ティルベリー
  11. フェルナン・ブローデル人物AD1902年8月24日 – AD1985年11月27日著者ドイツの捕虜収容所で、記憶だけを頼りに主著を書き上げた。事件ではなく、山と海と気候がつくる「ほとんど動かない時間」から歴史を見る。
  12. 『地中海』の刊行できごとAD1949年本そのものドイツの捕虜収容所で書き上げた原稿が、戦後に本になった。王と戦争ではなく、山・海・気候という「ほとんど動かない時間」から歴史を書く方法が示される。パリ

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