マジャール人のパンノニア定住

概要
草原から来た騎馬の民が、ドナウの平原に落ち着いた。大モラヴィアを潰し、50年ヨーロッパを荒らし、キリスト教に改宗してハンガリーになる。
場所
47.00°N 20.00°E · ハンガリーとその周辺
本文
ハンガリー人は自らをマジャールと呼ぶ。その言葉はウラル語族に属し、いちばん近い親戚は、西シベリアのオビ川流域に住むハンティ人やマンシ人の言葉である。周りのスラヴ語やドイツ語、ルーマニア語とは系統がまったく違う。彼らの祖先は、ウラル山脈の周辺から、何世紀もかけて草原を西へ移ってきたと考えられている。
9世紀には、マジャールの人々は黒海の北の草原、彼ら自身の伝承でエテルケズと呼ばれる地に住んでいた。七つの部族に、ハザールから離れたカバルと呼ばれる集団が加わった連合で、騎馬と弓を得意とした。894年、東ローマ帝国はブルガリアと戦うために、彼らに助けを求めた。マジャールはドナウを越えてブルガリアを攻めたが、ブルガリアは東の遊牧民ペチェネグと手を組み、留守のエテルケズを襲わせた。帰る場所を荒らされたマジャールは、カルパチア山脈を越えて西へ移った。

これが「国土の取得」と呼ばれる出来事で、伝統的に895年から896年ごろとされる。
この時代のことを伝える史料は少ない。東ローマ皇帝コンスタンティノス7世が10世紀半ばに書いた統治の手引きや、西ヨーロッパの年代記の断片が主なもので、ハンガリー側の年代記が書かれるのは12〜13世紀になってからである。そこには、アールパードがモラヴィアの君主スヴァトプルクに白馬を贈り、その代わりに土地を得たという話のような、明らかに伝説とみられる物語も含まれている。率いたのはアールパードで、のちのハンガリー王家はその子孫を名乗った。カルパチア山脈に囲まれた盆地には、ドナウとティサの流れに沿って、遊牧に向いた広い草原があった。盆地の北西には、スラヴ人の大モラヴィア国があった。モラヴィアはマジャールの圧力の中で、10世紀の初めに歴史から姿を消す。907年には、盆地を取り戻そうとしたバイエルンの軍が、いまのブラチスラヴァ付近で大敗した。

盆地に落ち着いた後も、マジャールの騎馬隊は毎年のように西や南へ出撃した。ドイツ、北イタリア、フランス、さらにはスペインまで達し、東ローマ帝国の領内にも入った。軽い騎兵が素早く近づき、矢を浴びせては逃げ、追ってきた敵を囲んで討つ戦い方に、西ヨーロッパの重い騎士たちは手を焼いた。修道院や町が略奪され、身代金や貢ぎ物が取られた。ドイツ王国は、これに備えて城や砦を築き、騎兵を鍛えた。
流れが変わったのは10世紀の半ばである。933年、ドイツ王ハインリヒ1世がリアデでマジャールを破り、955年8月、その子オットー1世がアウクスブルク近くのレヒフェルトで大勝した(レヒフェルトの戦い)。捕らえられた指揮官たちは処刑された。以後、西への大規模な遠征はやんだ。オットーはこの勝利で名声を高め、962年に皇帝として戴冠する(オットー1世の戴冠)。

襲う相手がいなくなったとき、マジャールは定住の国を作る道を選んだ。10世紀の後半、首長ゲーザはドイツから宣教師を招いて洗礼を受け、息子にもイシュトヴァーンの名で洗礼を受けさせた。息子はバイエルン公の娘と結婚し、異教の旧勢力との争いに勝って、1000年に王として戴冠した(イシュトヴァーン1世の戴冠)。冠は教皇から贈られたと伝えられる。イシュトヴァーン1世は、司教座や修道院を置き、全国を州に分けて国の形を整えた。これがハンガリー王国である。
ハンガリー人は、キリスト教も、ラテン文字も、王国の仕組みも受け入れたが、言葉は手放さなかった。周りのスラヴ人の国々の間に、まったく別の言葉を話す人々の国が楔のように入ったことは、中央ヨーロッパの地図を長く方向づけた。1896年、ハンガリーは「国土の取得」から千年を祝う大きな祭典を開き、ブダペストの英雄広場には、アールパードと七部族の首長の像が建てられた。