イェニチェリの廃止

概要
イェニチェリは14世紀にキリスト教徒の少年を徴集して作った常備歩兵で、19世紀には結婚し、商売をし、改革に反対して、スルタンを何人も殺していた。マフムト2世は新軍を作って、イェニチェリが反乱すると、砲で兵舎を撃った。6000人。「吉祥事件」。450年の軍団が1日で消えた。それから、タンジマート。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
マフムト2世AD1785年7月20日–AD1839年7月1日 · 撃った本文
イェニチェリ(「新しい兵」の意)は、14世紀の後半、オスマン帝国がバルカンへ広がる中で作られた常備の歩兵である。やがてデヴシルメと呼ばれる徴集の仕組みが兵の供給源になった。バルカンやアナトリアのキリスト教徒の村から少年を選んで連れて行き、イスラームに改宗させ、トルコ語と宮廷の作法を教え、兵や官僚に育てる。給料を受け取る常備軍で、早くから鉄砲を持ち、結婚を許されず、家族も故郷も持たない。頼るのはスルタンだけで、それが強みだった。コンスタンティノープル陥落でも、モハーチの戦いでも、二度のウィーン包囲でも、イェニチェリは帝国の背骨だった。
17世紀に入って、その形が崩れた。結婚が許され、息子が入隊を望むようになり、デヴシルメは17世紀の終わりにはほとんど行われなくなった。イスタンブールの職人や商人が、給料と税の免除を目当てに名簿へ名前を入れた。名簿の上では十数万人いても、戦場に出られるのはその一部だった。一方で、イェニチェリは都の治安と商売に根を張り、自分たちの特権を脅かす改革には武器で応じた。1622年には若いスルタンのオスマン2世を廃して殺し、1730年の反乱ではアフメト3世が退位に追い込まれた。合図は兵営の大釜をひっくり返すことだった。釜を倒すのは「スルタンの食事はもう食べない」という意味である。

決定的だったのはセリム3世の失敗である。セリムは1790年代から、ヨーロッパ式に訓練した新軍「新秩序(ニザーム・ジェディード)」を育てた。1807年、イェニチェリとそれに連なる勢力が蜂起し、新軍は解散させられ、セリムは廃位された。翌1808年、セリムを復位させようとする地方の有力者アレムダル・ムスタファ・パシャが都に入ったとき、幽閉されていたセリムは殺された。その混乱の中で即位したのが、セリムの従弟にあたるマフムト2世である。23歳だった。即位の年のうちにイェニチェリはまた反乱を起こし、アレムダルは死んだ。オスマン家の男子でただ一人生き残ったマフムトは、この時、改革を口にすれば自分も殺されることを身にしみて知った。
マフムトは18年待った。表立って改革を言わず、法学者(ウラマー)の上層部を少しずつ自分の側に引き寄せ、イェニチェリの指揮官に自分の息のかかった者を据え、大砲を扱う砲兵隊を手元に固めた。1826年、ギリシアの反乱(ギリシア独立戦争)を抑えきれず、エジプト総督ムハンマド・アリーの近代的な軍に頼らざるを得なかったことは、旧い軍の無力を誰の目にも明らかにしていた。5月末、勅令が出た。イェニチェリの各隊から兵を出させ、ヨーロッパ式の訓練を受ける「エシュキンジ」という部隊を作る。イェニチェリを廃するのではなく、中から変える形をとったため、幹部はいったんこれを受け入れた。

訓練は6月に始まった。6月14日の夜から15日の朝にかけて、イェニチェリはエト・メイダヌ(肉の広場)の兵営で大釜を倒した。反乱の合図である。彼らは宮殿へ向かい、改革を進めた高官の首を求めた。マフムトは今度は退かなかった。預言者ムハンマドの聖なる旗を宮殿から持ち出させ、それを掲げてスルタンのもとに集まるよう呼びかけた。法学者たちは反乱者と戦うことを宗教上の務めだと認め、学生や市民、砲兵、そして訓練を受けた兵が旗の下に集まった。砲兵隊は兵営を囲み、門を砲で撃ち破った。兵営は燃え、中にいた者の多くが焼け死ぬか撃たれた。逃げた者は市中で捕らえられ、その後の数日でさらに多くが処刑された。死者の数ははっきりせず、数千人とも、6000人以上ともいわれる。地方へ追放された者はさらに多い。
6月17日、イェニチェリの廃止が布告された。その名を口にすることさえ嫌われ、兵営は取り壊された。イェニチェリと結びつきの深かったベクタシ教団も禁じられ、修道場が閉じられた。宮廷はこの日々を「ヴァカイ・ハイリイェ(吉祥の出来事)」と呼んだ。450年近く続いた軍団が、数日で消えた。
代わりに作られたのが「ムハンマドの勝利の軍(アサキル・イ・マンスレ・イ・ムハンマディイェ)」である。洋式の制服が導入され、1829年には役人の頭からターバンが消えて赤いフェズに変わった。1830年代には、のちにプロイセンの参謀総長となる若いモルトケが軍事顧問として招かれた。ただし、新しい軍がすぐに強くなったわけではない。1827年にはナヴァリノの海戦で英仏露の連合艦隊に艦隊を沈められ、1828〜29年のロシアとの戦争に敗れ、ギリシアの独立を認めることになった。さらに自分の臣下であるムハンマド・アリーの軍に1830年代に二度敗れた。マフムトは1839年、二度目の大敗の知らせが都に届く前後に、結核で世を去った。
それでも、この日を境に変わったことがある。スルタンを廃し、殺すことのできる軍は都からいなくなった。マフムトは晩年、役所の組織、服装、郵便、学校に手を入れ、官僚を育てた。その下地の上に、息子のアブデュルメジト1世が即位の年に出したのがギュルハネ勅令(タンジマート)である。19世紀のオスマン帝国の改革は、大砲で始まった。軍の力でしか古い軍を除けなかったことは、のちの帝国とトルコ共和国で、軍が政治の行方を決める役を担い続けたことと無関係ではないといわれる。