できごと

ヴェルデンの虐殺

Massacre of Verden
AD782年
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)サハラの遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシアサーミ東ローマ帝国フランク王国原スラヴ系の人びと後ウマイヤ朝スウェーデン系の人びとKryvichsBaltsアヴァールハザール第一次ブルガリア帝国MauriWarsenisLombard principalitiesNeustriaAuresMagyarsBarghawataPolanesCantiaアランCuacasian AlbaniaSeveriansSabirsサクソン人West GetaesCzechsFrisiansAD782年ヴェルデン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD782年の版図を描いています(32勢力)。

概要

ザクセン戦争の10年目。ヴィドゥキントの反乱でフランク軍が全滅したあと、カールはアラー川の岸でザクセン人4500人を一日で斬った、と『フランク王国年代記』は書く。「洗礼を受けなければ死刑」。30年の戦争。ナチスがヴィドゥキントを英雄にし、この場所に記念の石を並べた。

場所

ヴェルデン
52.92°N 9.23°E · ドイツ

関わった人(1)

カール大帝AD748年頃–AD814年 · 命じた

本文

エルベ川とライン川の間、いまのドイツ北西部の森と湿地には、8世紀、ザクセン人が住んでいた。王を持たず、地域ごとの集会で物事を決め、古い神々を祀っていた。南と西に広がるフランク王国は、すでにキリスト教の国であり、国境ではザクセン人との略奪と報復が繰り返されていた。

772年、カール大帝はザクセンに攻め入り、エーレスブルクの砦を奪って、ザクセン人が聖なるものとしたイルミンスル(世界を支える柱とされる木、あるいは柱の像)を倒した。これが30年あまり続くザクセン戦争の始まりになる。カールにとってこの戦いは、国境の守りであると同時に、異教の民をキリストの教えへ導く務めでもあった。征服と布教は、最初から一つのものとして進められた。カールが他の戦場へ向かうたびにザクセンは背き、カールが戻ると服従と洗礼を誓った。777年にはパーダーボルンでザクセンの集会を開かせ、多くの者に洗礼を受けさせたが、有力者のヴィドゥキントはこれを拒み、デンマークの王のもとへ逃れた。翌778年、カールがスペインで敗れた年(ロンスヴォーの戦い)には、ザクセン人はライン川の岸まで攻め込んでいる。

ヴェルデン・アン・デア・アラーのザクセンハイン。ナチス時代に建てられた虐殺の記念碑
ヴェルデン・アン・デア・アラーのザクセンハイン。ナチス時代に建てられた虐殺の記念碑Wikimedia Commons Gestaltenohneverstand · CC BY 3.0

782年、カールはザクセンの土地に伯を置き、フランクの仕組みで治めようとした。そこへヴィドゥキントが戻り、反乱が起きた。討伐に向かったフランクの軍は、ジュンテルの山地で待ち伏せに遭って大敗した。年代記は、王の使者2人と伯4人、ほかに貴族20人ほどが死んだと記す。

知らせを受けたカールは自ら軍を率いて来た。ヴィドゥキントはまたも北へ逃れていて、そこにいなかった。カールはザクセンの有力者を集め、反乱に加わった者を引き渡させた。『フランク王国年代記』は、アラー川の岸のヴェルデンで、4500人が一日のうちに首を斬られたと書く。

カール大帝の肖像(デューラー画)
カール大帝Wikimedia Commons Albrecht Dürer · Public domain

この数をそのまま信じるかについては、19世紀から議論がある。一日で4500人を斬るのは難しいとして、写本の「首を斬られた(デコッラーティ)」は「移された(デロカーティ)」の誤りではないかという説が出された。ただ、写本にそう読める根拠は乏しく、多くの研究者は、数には誇張があるかもしれないが大量の処刑はあった、と考えている。この頃に出されたとされる『ザクセン地方に関する勅令』は、洗礼を拒む者、教会を焼く者、四旬節に肉を食べる者、死者を古いしきたりで火葬する者を死刑と定めた(出された年は782年とも、少し後とも言われる)。カールの宮廷にいた学者アルクィンは、のちに手紙で、信仰は強いられるものではなく、まず教えてから洗礼を、十分の一税を急いで取り立てるな、と書いている。

785年、ヴィドゥキントはついに降り、アティニーで洗礼を受けた。代父はカール自身だった。その後の彼の消息はほとんど分からない。それでもザクセンの抵抗は終わらず、790年代にも反乱が起きた。カールは多くのザクセン人を家族ごとフランクの各地へ移し、エルベ川の向こうの土地を空けた。戦いは804年まで続き、伝記作家アインハルトはそれを33年に及んだと数えている。

ザクセンの地には、やがてブレーメン、ミュンスター、パーダーボルン、オスナブリュックなどに司教座が置かれ、教会の網の目が広がった。そして百年あまり後、ザクセンの家から出た王がドイツを治め、オットー1世は皇帝の冠を受ける。征服された側が、帝国の中心になった。

1930年代、ナチスはこの出来事を政治に使った。ヴィドゥキントは外来の宗教に抗ったゲルマンの英雄とされ、カールには「ザクセン人を屠った者」という呼び名が向けられた。1935年、ヒムラーの親衛隊はヴェルデンに「ザクセンの森」を造り、4500の石を道の両側に並べた。だがまもなく、ドイツを一つにした偉人としてカールを持ち上げる方針に切り替わり、ヒトラー自身もカールを称えるようになる。石はいまも並んでいて、ここで何が記念されてきたのかを問う場所になっている。

同じ時代のできごと

バグダードの建設AD762年吐蕃の長安占領AD763年藤原仲麻呂の乱AD764年(天平宝字8年)宇佐八幡神託事件AD769年ランゴバルド王国の滅亡AD774年ロンスヴォーの戦いAD778年8月15日十分の一税AD779年ラービアと神への愛AD780年頃
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