人物

シャカ・ズールー

Shaka Zulu
AD1787年頃 – AD1828年9月22日(享年41・推定)
ズールー王国重要度 4

概要

戦術と組織を作り変え、小さな氏族を強大な王国にした。その激動は南部アフリカ全体を揺らす。

所属

ズールー王国

関わったできごと(2)

ズールー王国の勃興1816年 · 当人ムフェカネAD1820年頃 · ズールー

本文

シャカは1787年頃、南部アフリカの東海岸に近い地方で、ズールーという小さな氏族の首長センザンガコナの子として生まれた。母ナンディは別の氏族の娘で、二人の関係は正式な結婚の前のことだった。シャカという名は、腸の病を意味する言葉から来ていて、首長の側がナンディの妊娠をその病のせいだと言い逃れたことに由来する、という話が伝わる。

シャカ・ズールーの肖像
シャカ・ズールーの肖像Wikimedia Commons James King · Public domain

母と子は父のもとを追われ、母の氏族、次いで別の氏族の間を転々とした。少年時代のシャカは、私生児としてからかわれ、ひどい扱いを受けたという。後の残酷さと猜疑心を、この経験に結びつける伝記作者は多い。ただし、少年時代の話の多くは、後に人々が語り伝えたもので、確かめようがない。やがて母子は、この地方で大きな力を持っていたムテトワの首長ディンギスワヨの庇護を受けた。若いシャカはムテトワの戦士団に加わり、その勇猛さで頭角を現した。

1816年頃、父センザンガコナが死ぬと、シャカはディンギスワヨの後押しを受けて、跡を継いだ異母兄を殺し、ズールーの首長となった。当時のズールーは、人口が千数百人ほどとみられる小さな集団にすぎなかった。

ロンドン、キャムデン・マーケットのシャカ像(俳優ヘンリー・セレを基にした像)
ロンドン、キャムデン・マーケットのシャカ像(俳優ヘンリー・セレを基にした像)Wikimedia Commons Jacob Truedson Demitz for Ristesson History · Public domain

シャカは軍を作り替えた。それまでの戦いでは、離れた所から槍を投げ合い、勝敗がつけばそこで退くことが多かった。シャカは、柄が短く、穂先の長い刺突用の槍を兵に持たせた。投げてしまえば武器を失う。この槍で、大きな牛革の盾で相手の盾を引っかけてはね上げ、あらわになった脇腹を刺す、接近戦の戦い方を叩き込んだ。走る速さを上げるために、兵にサンダルを捨てさせ、裸足で茨の上を踏ませて鍛えたという話も伝わる。

兵たちは年齢ごとに連隊に編成された。この仕組みはもともとこの地方にあったが、シャカはそれを常設の軍に変えた。連隊は王の兵営で暮らし、王の許しがあるまで結婚を許されなかった。出身の氏族ではなく、連隊と王に忠誠を尽くす兵が生まれた。戦場では「牛の角」と呼ばれる陣形をとった。胸と呼ばれる中央の部隊が敵を正面で受け止め、角と呼ばれる両翼の部隊が左右から回り込んで包み込み、腰と呼ばれる後方の部隊が控える。

シャカの王宮イシバヤでのズールー連隊の閲兵と踊り(1827年頃の記録)
シャカの王宮イシバヤでのズールー連隊の閲兵と踊り(1827年頃の記録)Wikimedia Commons Nathaniel Isaacs · Public domain

1818年頃、庇護者のディンギスワヨが敵対するンドワンドウェの首長に殺されると、シャカはムテトワの人々を自分の配下に収めた。翌年頃にはンドワンドウェを打ち破り、周りの氏族を次々に併合して、10年ほどのうちに、数万の兵を持つ王国を築き上げた(ズールー王国の勃興)。

この急激な膨張は、周辺の社会を大きく揺さぶった。攻められて故郷を追われた集団は、別の集団を押しのけながら移動し、さらにその先で国を作った。ムジリカジの率いるンデベレの人々はいまのジンバブエへ、ほかの集団はモザンビークやマラウイ、タンザニアにまで達した。いまのレソトの王国も、この混乱の中から生まれた。19世紀の前半に南部アフリカで続いたこの大移動と戦乱を、ムフェカネと呼ぶ(ムフェカネ)。ただし、その原因をすべてシャカに帰する見方には、近年強い批判がある。人口の増加や干ばつ、東海岸の港からの奴隷の売買、ケープ植民地(ケープ植民地の設置)からの白人の圧力なども大きく関わっていたとされ、研究者の間で論争になった。

ムフェカネに関わる図版:Departure of the Fingoes-1840
ムフェカネWikimedia Commons Public domain

1824年、英国の商人の一団が、いまのダーバンにあたる湾にやって来た。彼らはシャカの宮廷を訪れ、刺されて傷を負った王の手当てをして、湾の周りの土地の使用を許された。シャカについて書かれた同時代の記録の多くは、この商人たちの手によるものである。その中には、シャカの残虐さを大げさに書けば本が売れる、と仲間に勧める手紙を書いた者もいて、記録の信頼性には疑問が残る。

1827年、母ナンディが死んだ。シャカは悲しみのあまり、極端な服喪を国じゅうに命じたとされる。1年の間、作物を植えることも、牛の乳を飲むことも禁じ、嘆きが足りないとみなした多くの人々を殺したという。その規模には誇張もあるとみられるが、王の振る舞いが周囲を恐れさせたことは確かだった。

1828年9月、遠征に兵を出して宮廷の守りが手薄になっていたとき、シャカは異母弟のディンガネとムランガナ、そして側近の一人に刺されて死んだ。40歳前後だった。王位を継いだディンガネも、やがて内陸へ進んできたオランダ系の移民と戦うことになる。シャカの築いた王国は、その後も50年にわたって独立を保ち、1879年にはイサンドルワナの戦いで英国の軍を破った(イサンドルワナの戦い)。だが同じ年のうちに英軍に敗れ、独立を失った。

イサンドルワナの戦いに関わる図版:Isandhlwana
イサンドルワナの戦いWikimedia Commons Charles Edwin Fripp · Public domain

シャカは、植民地時代の白人の記録では血に飢えた暴君として描かれ、ズールーの人々の間では民族をまとめた偉大な王として語り継がれてきた。いまも南アフリカでは、9月24日のシャカの日に、ズールーの人々が伝統の装いで集まる。

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