タークシン
概要
焼かれたアユタヤから逃れ、7か月でビルマ軍を追い出して国を建て直した。最後は錯乱したとされて処刑される。
関わったできごと(1)
アユタヤの陥落AD1767年 · 包囲を突破し、のちに再統一する本文
1734年4月17日、アユタヤ朝の都で生まれた。父は中国の潮州から来た移民で、徴税の請負をしていたとされ、母はタイ人だった。幼名はシン。幼いころに有力な貴族に引き取られて育ち、寺で読み書きを学び、のちに王に仕える役人になった。タイ語のほか、中国語の方言やいくつかの言葉を話したと伝えられる。やがて北西の町ターク(タク)の長官となり、プラヤー・タークと呼ばれた。「タークシン」は、このタークの名とシンの名を合わせた呼び名である。
18世紀の半ば、西隣のビルマでは新しくコンバウン朝が興り(コンバウン朝の成立)、勢いに乗ってアユタヤへ攻め寄せてきた。1766年から都は包囲され、内部は混乱していた。包囲のなかで、タークシンは手柄を立てても正当に報いられず、都の守りに見切りをつけたとされる。1767年の初め、彼はおよそ500人の兵を率いて包囲を破り、東へ脱出した。
その数か月後の1767年4月、アユタヤは陥落した(アユタヤの陥落)。400年以上続いた都は焼かれ、寺院も王宮も壊され、多くの人がビルマへ連れ去られた。王国は崩れ、各地の有力者がそれぞれに自立を名乗った。

タークシンは東海岸のラヨーンからチャンタブリーへ進み、そこを拠点に兵と船を集めた。華人の商人たちの支えも大きかったとされる。チャンタブリーの町を攻めるとき、兵たちに鍋や釜を割らせ、今夜は町の中で食事をするのだと言って退路を断った、という話が伝わる。1767年の秋、船団を率いてチャオプラヤー川をさかのぼり、ビルマ軍が残した陣を打ち破った。都の陥落から7か月ほどのことだった。
彼は焼け落ちたアユタヤには戻らず、川の下流のトンブリーに都を置いて王になった。海に近く、交易に便利で、守りやすい場所だった。そこから、自立していた北のピッサヌローク、東北のピマーイ、南のナコーンシータマラートなどの勢力を次々に従え、3年ほどで王国をほぼ一つにまとめ直した。

それで終わりではなかった。ビルマとの戦いは続き、北のチエンマイからビルマの勢力を追い出した。東ではラオスのヴィエンチャンを攻め、のちにタイで最も尊ばれる仏像となるエメラルド仏を持ち帰っている。カンボジアにも兵を送った。中国の清との交易を再び開き、国の財政を立て直そうとした。15年の治世の大半は、戦いのなかにあった。
晩年、王は変わったとされる。瞑想に打ち込み、自分は聖者の最初の段階(預流果)に達したと主張し、僧たちに自分を拝むよう求めた。従わない高僧を鞭打たせ、役人たちにも疑いを向けて厳しく罰した、と伝えられる。財政難のなかで重い取り立ても行われた。1782年、都で反乱が起き、王は退位させられた。カンボジアに遠征していた将軍チャオプラヤー・チャクリーが兵を返して都に入り、実権を握った。

1782年4月7日、タークシンは処刑された。王族の血を地に流してはならないという慣わしに従い、ビロードの袋に入れられ、白檀の棍棒で打たれたと伝わる。47歳。チャクリーはラーマ1世として即位し、いまに続くチャクリー朝を開いて、都を川の対岸のバンコクへ移した(バンコクへの遷都)。
晩年の錯乱の話は、主に新しい王朝の側の記録によるもので、王位を奪ったことを正当化するために誇張されたのではないか、という見方もある。処刑されたのは替え玉で、本人は南の地方で僧として余生を送った、という言い伝えもある。真相は分からない。

いまのタイで、タークシンは国を救った英雄として祀られている。バンコクの大きな交差点にはその騎馬像が立ち、即位の日の12月28日には人々が花を捧げる。ビルマに滅ぼされた国を、7か月で取り戻しにかかった中国系の武将は、王朝の外にいながら、タイの歴史の大きな節目に立つ人物になった。