人物

アウラングゼーブ

Aurangzeb
AD1618年11月3日 – AD1707年3月3日(享年88)
ムガル帝国重要度 4

概要

ムガルの版図を最大にした。同時に人頭税を復活させ、各地の反発で帝国は内側から割れていく。

所属

ムガル帝国

関わったできごと(1)

アウラングゼーブの治世1658年 · 当人

本文

アウラングゼーブは1618年11月、ムガル帝国の王子フッラム、のちの皇帝シャー・ジャハーンの三男として生まれた(ムガル帝国の成立)。母は、のちにタージ・マハルの完成に葬られるムムターズ・マハルである。8歳ほどのとき、父が祖父の皇帝ジャハーンギールに背いて敗れたため、兄のダーラー・シコーとともに人質として祖父の宮廷へ送られた。

戦象に立ち向かうアウラングゼーブ(パードシャー・ナーマより)
戦象に立ち向かうアウラングゼーブ(パードシャー・ナーマより)Wikimedia Commons Abdul Hamid Lahori · Public domain

14歳のとき、宮廷の催しの象の戦いで、暴れた象が自分に向かってきた。アウラングゼーブは逃げずに馬上から槍で立ち向かい、居合わせた人々を驚かせた、と伝えられる。若いころから、学問はペルシア語とアラビア語、イスラームの法学をよく修め、信仰心の篤さで知られた。兄弟の中で、長兄ダーラーとは正反対の性格だった。ダーラーは神秘主義に惹かれ、ヒンドゥーの哲学書ウパニシャッドをペルシア語に訳させるなど、イスラームとヒンドゥーの教えの根は同じだと考えていた。父のシャー・ジャハーンが目をかけたのはダーラーで、アウラングゼーブは長く南の高原地帯デカンの総督として、都から遠ざけられた。

1657年、シャー・ジャハーンが重い病に倒れると、四人の息子たちの間で位を争う戦いが始まった。アウラングゼーブは弟のムラードと手を組み、1658年、アーグラの近くでダーラーの軍を破った。病から回復していた父は、アーグラの城に閉じ込められ、8年後に死ぬまでそこから出られなかった。窓から、亡き妻の眠るタージ・マハルを眺めて晩年を過ごしたと語られる。アウラングゼーブは、味方だったムラードも捕えて後に処刑し、逃げたダーラーを捕まえて、イスラームを捨てた背教者として処刑した。もう一人の兄シュジャーも、ビルマの方へ逃れて消息を絶った。

アウラングゼーブ
アウラングゼーブWikimedia Commons Unsigned · Public domain

こうして位に就いたアウラングゼーブは、アーラムギール(世界を掴む者)と名乗り、49年にわたって帝国を治めた(アウラングゼーブの治世)。暮らしは質素だった。宮廷の楽人を遠ざけ、絹の衣を避け、自ら帽子を縫い、クルアーンを書き写して得た金で自分の暮らしをまかなった、と伝えられる。イスラームの法学者たちを集めて、法の判断を集大成した書物を作らせている。

その信仰は、統治にも表れた。1679年、彼はイスラーム教徒でない者に課す人頭税、ジズヤを復活させた。曾祖父のアクバルがこれを廃して、ヒンドゥーの有力者と手を結ぶ政治を始めてから、100年以上がたっていた。ベナレスやマトゥラーの大きなヒンドゥー寺院が壊され、跡にモスクが建てられた。1675年には、シク教の第9代の導師テーグ・バハードゥルが、改宗を拒んだとしてデリーで処刑された(シク教の始まりはグル・ナーナクとシク教の成立)。

ミール・ジュムラー
ミール・ジュムラーWikimedia Commons Shiv Das (painted by) · Public domain

ただ、アウラングゼーブの姿は一色ではない。宮廷の高官には、それまでの皇帝の時代よりも多くのヒンドゥー教徒がいたとされる。寺院を壊させる一方で、いくつかの寺院には土地を寄進する命令も出しており、その文書が残っている。寺院の破壊は、反乱した地域の有力者を罰する政治的な意味を持っていたとする研究者もいる。狂信の皇帝という像は、のちのイギリスの歴史家や、現代のインドの政治の中で強められてきた面があり、評価はいまも激しく割れている。

確かなのは、彼の治世に帝国の各地で抵抗が広がったことである。西インドでは、マラーターの指導者シヴァージーが、ムガルの軍を相手に巧みな戦いを続けた。1666年、アーグラの宮廷に呼ばれたシヴァージーは、扱いに怒って軟禁され、果物の籠に隠れて逃げ出したと伝えられる。ラージプートの王家も離反し、1681年には、アウラングゼーブ自身の息子がラージプートと組んで背いた。

晩年のシャー・ジャハーン
晩年のシャー・ジャハーンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1681年、アウラングゼーブはデカンへ向かい、二度と北の都には戻らなかった。デカンのイスラームの王国、ビジャープルとゴールコンダを1680年代の後半に滅ぼし、帝国の版図はムガル史上最大になった。だが、マラーターとの戦いは終わらなかった。マラーターの騎兵は城を取られれば別の城へ移り、ムガルの補給路を襲い続けた。巨大な軍営をデカンに張りつけた戦いは26年に及び、帝国の財政は傾き、遠い北の各地では統治が緩んでいった。

1707年3月、アウラングゼーブはデカンの町アフマドナガルの陣営で死んだ。88歳だった。死の前に息子に宛てた手紙で、私は一人で来て、見知らぬ者として去る、自分が何をしてきたのか分からない、と書いている。遺言により、墓はデカンの小さな村の聖者の廟の傍らに、屋根もない簡素な形で作られた。父が妻のために建てたタージ・マハルとは、あまりに対照的な墓である。

アウラングゼーブ
アウラングゼーブWikimedia Commons Nicolas de Larmessin · Public domain

死後、息子たちはまた位を争い、皇帝は短い間に次々と替わった。地方の総督たちは独立していき、マラーターは勢力を北へ伸ばした。1739年にはペルシアのナーディル・シャーがデリーを略奪し、名高い孔雀の玉座を持ち去る。1757年のプラッシーの戦いの頃には、ムガルの皇帝はデリーの周りを治めるだけの存在になっていた。最大の版図を築いた皇帝の死から、帝国は急速に崩れていったのである。

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