サモリ・トゥーレ
概要
西アフリカでフランスに16年抗った。自前で銃を作らせ、退きながら国ごと移動する戦い方をとる。
関わったできごと(1)
サモリ・トゥーレの抵抗1882年 · 指導本文
サモリ・トゥーレは1830年ごろ、いまのギニアの東部、ニジェール川上流の高地にあるマニャンバラドゥグの村に生まれた。マンディンカ(マリンケ)の人々の地で、家はディウラと呼ばれる行商人の家系だった。かつてマリ帝国が栄えた土地である。若いサモリも、金や家畜、布を運び、やがて銃を扱う商いに携わった。海岸のヨーロッパ人から内陸へ火器が流れ込み、各地の首長たちが争う時代だった。

転機は1848年ごろに来た。土地の有力な一族シセの軍勢が村を襲い、母を連れ去った。サモリは母を取り戻すため、自らシセの軍に入り、7年ほど仕えたと伝えられる。母はやがて解放されたが、彼はそのあいだに戦いのやり方と兵の動かし方を身につけた。
故郷に戻ると、親族や仲間を集めて自分の軍を作った。1870年代には周辺の小国を次々と従え、ビサンドゥグを都とする国を築いた。のちにワスルー帝国と呼ばれる国である。1884年にはイスラームの指導者を意味する「アルマミ」の称号を名乗り、イスラームを国の柱にすえた。国を地方に分けて軍と役人を置き、税を集めた。最も大きかったころには、いまのギニア・マリ・コートジボワールにまたがる広さがあった。
ちょうどそのころ、フランスがセネガルから東へ、ニジェール川を目指して軍を進めていた。ヨーロッパ諸国がアフリカを分け合った時代である(アフリカ分割、ベルリン会議とアフリカ分割)。1882年、両者は初めてぶつかった。サモリはときに戦い、ときに条約を結んで時を稼いだ。1886年の条約では、ニジェール川の左岸をフランスに譲っている。同じころ、東のシカソの町を1年あまり包囲したが落とせず、多くの兵を失った。

サモリの戦いで際立つのが、武器を自前でまかなったことだった。南のシエラレオネの港フリータウンのイギリス商人から、連発銃を買い入れた。さらに、手に入れたフランスの銃を鍛冶たちに分解させ、部品を一つずつ写して作らせた。数百人の鍛冶が働いたとも伝わる。精度ではかなわなかったが、修理と弾の補給を自分でできることは大きかった。兵を訓練し、ヨーロッパ式の隊列も取り入れた。
外交にも手を尽くした。フランスに対抗するため、フリータウンのイギリスに使者を送り、自分の国をイギリスの保護下に置いてもよいと申し出たこともある。だがイギリスはフランスとの勢力の取り決めを優先し、これに応じなかった。ヨーロッパの国どうしの線引きが、アフリカの国の選択より先に決まっていたのである。

1891年、フランスが本格的に攻め込むと、サモリは国を丸ごと東へ移す戦いに切り替えた。住民と家畜を連れて退き、あとの農地や村を焼いてフランス軍に何も残さない。新しい土地では、その地の国々を征服して国を作り直す。こうしてコートジボワール北部からいまのガーナとの境まで移り、古い交易都市コングを焼き払った。この過程で多くの人が死に、征服した土地の人々を奴隷として売って馬や銃に換えたこともあった。自国の民に対しても苛烈だった、という評価がつきまとう。
1898年9月、補給が尽き、兵が飢えていたところを、フランスのグロー大尉の部隊に急襲され、グエレムで捕らえられた。抗戦は16年に及んでいた。サモリは赤道直下のガボンへ流され、オゴウェ川の中の島に置かれた。1900年6月2日、肺の病で死んだ。70歳前後だった。
植民地時代のフランスの教科書では、サモリは残忍な奴隷商人として描かれた。独立の時代になると、評価は逆転する。1958年、ギニアがフランスから独立したとき、初代大統領となったセク・トゥーレは、自分はサモリの子孫だと称した(孫とも曾孫ともいう)。抵抗の記憶が、独立運動の資源として使われたのである。抵抗の英雄と、戦乱で多くの人を苦しめた征服者。その二つの顔は、いまも並んで語られる。抗戦の経過はサモリ・トゥーレの抵抗にくわしい。