できごと

ムフェカネ

Mfecane
AD1820年頃
重要度 4
ムフェカネに関わる図版:Departure of the Fingoes-1840
Departure of the Fingoes-1840 Wikimedia Commons Public domain

概要

「粉砕」。1810年代から20年、南部アフリカの内陸で、社会が壊れて作り直された。シャカのズールーが軍制を変え(短い突き槍、年齢別の連隊、牛の角の陣形)、周りを併呑した。逃げた集団が別の集団を襲い、連鎖した。数十万人が死に、モショエショエのバソト、ムジリカジのンデベレ、ソシャンガネのガザなど、新しい国が生まれた。ボーア人が入ったのは、その後の空白の地だった。

場所

ブラッド・リバー
-28.11°N 30.54°E · 南アフリカ

関わった人(1)

シャカ・ズールーAD1787年頃–AD1828年9月22日 · ズールー

本文

1810年代から1830年代にかけて、南部アフリカの内陸では、多くの社会が壊れ、人々が大きく移動し、その中から新しい国々が生まれた。ズールー語でムフェカネ(砕くこと)、ソト語でディファカネ(散り散りにされること)と呼ばれる時代である。どちらの言葉も、そこに生きた人々が味わった破壊と離散を表している。

なぜこの時期にそれが起きたのか。いくつかの要因が重なったと考えられている。18世紀の後半、いまのクワズール・ナタールの海岸に近い地域では人口が増え、アメリカ大陸原産のトウモロコシが広まって農業の形が変わっていた。19世紀初めには大きな旱魃と飢饉が起き、限られた牧草地と水場をめぐる争いが激しくなった。北のデラゴア湾(いまのマプト)では、ヨーロッパ人の商人との象牙や牛の交易があり、それを押さえようとする首長国どうしの競争もあった。こうした中で、若者を年齢ごとにまとめる集団を、首長に直属する軍の連隊として使う動きが、ムテトワのディンギスワヨやンドワンドウェのズウィデのもとで進んでいた。

シャカ・ズールーの肖像
シャカ・ズールーWikimedia Commons James King · Public domain

その中から現れたのがシャカ・ズールーである。ズールーは当初、数千人ほどの小さな首長国にすぎなかったが、1816年ごろにシャカが首長となると、急速に力を伸ばした(ズールー王国の勃興)。短い柄の突き槍と大きな盾を持たせ、連隊を厳しく鍛え、正面と両翼から敵を包む陣形で戦ったと伝えられる。ただし、こうした「改革」の多くは、のちの白人の記録や口承で大きく語られたもので、どこまでがシャカ自身の工夫だったのかには議論がある。ズールーは1818年から翌年にかけてズウィデのンドワンドウェとの戦いに勝ち、1820年代にはナタール一帯を支配下に収めた。従った人々はズールーに組み込まれ、抵抗した人々は殺されるか、土地を捨てて逃げた。

逃げた集団は、別の土地で別の集団を襲った。それがさらに次の移動を生む。ムフェカネが連鎖と呼ばれるのはこのためである。敗れたンドワンドウェの中から、ソシャンガネは北東へ向かい、いまのモザンビーク南部にガザ王国を築いた。ズワンゲンダバの一団はさらに遠く、北へ北へと移動を続けた。彼らが日食の日にザンベジ川を渡ったという伝承があり、1835年11月の日食と一致することから、渡河の年を知る手がかりになっている。その子孫は、いまのマラウイやタンザニア、ザンビアにまで広がり、ンゴニと呼ばれる諸集団になった。

シャカの配下だったムジリカジは、戦利品の牛をめぐって王と対立し、1820年代前半に一団を率いて内陸の高原へ逃れた。彼はそこで周囲の集団を従えて勢力を広げたが、1830年代後半、北上してきたボーア人やズールーの軍勢に相次いで攻められ、さらに北へ移った。そうしていまのジンバブエ南西部に建てたのがンデベレ王国である。

内陸の高原でも、集団どうしの襲撃と移動が続いた。その混乱の中で、モショエショエは、頂上が平らで崖に囲まれたタバ・ボシウの山に拠り、戦いに敗れた人々や逃げてきた人々を受け入れて、新しい国をまとめた。バソトの国で、のちのレソトである。セベトワネに率いられたコロロの人々は、はるか北のザンベジ川上流まで移っていった。スワジランド(いまのエスワティニ)がまとまっていくのも、この時代のことだった。

死者の数は数十万とも100万とも言われるが、確かな根拠のある数字ではない。20世紀の南アフリカでは、白人政府の歴史教科書がこの時代を、アフリカ人どうしの殺し合いで内陸が無人になり、そこへボーア人が入った、という物語に使った。1830年代後半のグレート・トレックで移住したボーア人は、空いた土地に入っただけだ、というのである。「空き地の神話」と呼ばれる。実際には、多くの土地に人は住み続けており、空いていたわけではない。

1980年代になると、ムフェカネという語り方そのものを疑う研究が出た。歴史家ジュリアン・コビングは1988年、この混乱の主な原因はズールーではなく、ケープ植民地の周辺での労働力の獲得や、デラゴア湾を拠点にした奴隷の取引など、ヨーロッパ人の側の活動にあり、ズールー中心の語りはそれを覆い隠す「アリバイ」だったと論じた。これには強い反論もあり、論争はいまも続いている。現在では、内側の要因と外側の圧力の両方を見るのが一般的である。

確かなのは、ヨーロッパ人が内陸へ本格的に入るより前に、南部アフリカの政治の地図が大きく描き直されていたことである。ズールー、ンデベレ、バソト、スワジ、ガザ、ンゴニ。いまの南部アフリカの国々や民族の輪郭の多くは、この数十年の激動の中で形を取った。その後この地域は、ケープ植民地の設置から広がるイギリスとボーア人の進出にさらされ、やがてボーア戦争へと続く争いの舞台になっていく。

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