概要
「粉砕」。1810年代から20年、南部アフリカの内陸で、社会が壊れて作り直された。シャカのズールーが軍制を変え(短い突き槍、年齢別の連隊、牛の角の陣形)、周りを併呑した。逃げた集団が別の集団を襲い、連鎖した。数十万人が死に、モショエショエのバソト、ムジリカジのンデベレ、ソシャンガネのガザなど、新しい国が生まれた。ボーア人が入ったのは、その後の空白の地だった。
場所
-28.11°N 30.54°E · 南アフリカ
関わった人(1)
シャカ・ズールーAD1787年頃–AD1828年9月22日 · ズールー本文
1810年代から1830年代、南部アフリカの内陸で、社会が壊れ、人が動き、新しい国ができた。ズールー語で「ムフェカネ(粉砕、砕くこと)」、ソト語で「ディファカネ(散らされること)」。
背景。18世紀の後半、ナタールの海岸部で人口が増え、トウモロコシ(アメリカ原産、ポルトガル経由)が入って農業が変わり、旱魃(1800年代の「マドラカネの飢饉」)が来た。デラゴア湾(マプト)の象牙と奴隷の交易をめぐる争い。放牧地の不足。年齢別の集団を、割礼の集団から、軍の連隊に変える動きが、いくつかの首長国で始まっていた(ディンギスワヨのムテトワ)。
シャカ。ズールーは数千人の小さな首長国だった。1816年、シャカが首長になった。彼が変えたもの、と伝えられること。投げ槍でなく、短い柄の突き槍(イクルワ。牛の吸う音から名づけたと言う)。大きな盾。裸足で走らせた(サンダルを捨てさせ、茨の上で踊らせた、と伝える)。年齢別の連隊(アマブト)を王直属にして、首長の権力を削いだ。「牛の角」の陣(中央の「胸」が正面から押さえ、両翼の「角」が包み、後方の「腰」が予備)。
1818年、ンドンダクスカでジュベを破った。1820年代、ナタール一帯を併呑した。人は殺されるか、ズールーになった。
連鎖。逃げた集団が、次の集団を襲った。ムジリカジ(シャカの部下で、牛を隠したことから逃げた)は、北へ移動しながら襲い、1830年代にジンバブエ高原でンデベレ王国を作った。ソシャンガネはモザンビークでガザ王国。ズワンゲンダバは、北へ1500キロ、タンザニアとマラウィまで行って、ンゴニの諸集団になった(1835年、日食を見ながらザンベジ川を渡った、と伝承にある。1835年11月20日の金環日食と一致する)。モショエショエは、山の上のタバ・ボシウに立てこもって難民を集め、バソトの国(後のレソト)を作った。セベトワネはコロロを率いてザンベジへ。
死者は数十万から100万と推定されるが、根拠は薄い。20世紀の南アフリカの歴史教科書は、この混乱を「アフリカ人自身が内陸を空にしたので、ボーア人が入った土地は無人だった」という物語(「空き地の神話」)に使った。
1980年代から、修正が出た。ジュリアン・コビングは、ムフェカネの語り自体が、ポルトガル領モザンビークとケープからの奴隷狩りを隠すために作られた面がある、と論じた(1988年)。反論もあり、いまも議論が続いている。確かなのは、ヨーロッパ人が本格的に入る前に、この地域の政治地図が根本から書き換えられていたこと。ズールー、ンデベレ、ソト、スワジ、ガザ、ンゴニ。いまの南部アフリカの民族の輪郭は、この20年でできた。