リリウオカラニ
概要
ハワイ最後の君主。米国系の勢力に退位させられ、流血を避けるために抵抗しなかった。『アロハ・オエ』の作者。
所属
ハワイ王国関わったできごと(1)
ハワイ王国の転覆AD1893年1月17日 · 当人本文
1838年9月2日、ホノルルで生まれた。生まれたときの名はリディア・カマカエハ。ハワイの有力な首長の家の娘で、ハワイの慣わしに従って、生まれてすぐ別の首長の夫妻に養子として託された。宣教師たちが首長の子弟のために開いた学校で学び、英語とピアノ、そして西洋の音楽を身につけた。ハワイの島々をカメハメハ1世が一つの王国にまとめてから(ハワイ王国の統一)、まだ30年もたっていない頃である。

19世紀のハワイは、急速に変わっていった。アメリカ人の宣教師の子孫や商人が島に根を下ろし、サトウキビの大農園を開いた。農園で働く人手として、中国や日本、ポルトガルから大勢の労働者が渡ってきた。一方で、外から持ち込まれた病によって、ハワイの人々の数は激減していた。砂糖の輸出先はアメリカで、農園主たちの利益は、アメリカとの関係にかかっていた。
1862年、アメリカ生まれの役人ジョン・ドミニスと結婚した。1874年、兄のカラカウアが王に選ばれ、1877年、跡継ぎと決まっていた弟が死ぬと、彼女が王位継承者に指名された。リリウオカラニの名を名乗ったのはこのときである。

1887年、彼女がイギリスのヴィクトリア女王の即位50年の式典に出るためにロンドンにいたあいだに、ホノルルで事件が起きた。アメリカ系の農園主や商人の一団が武装して王に迫り、新しい憲法を認めさせたのである。王の権限を大きく削り、選挙権に財産の条件をつけて、多くのハワイ人とアジア系の住民から票を奪う憲法だった。武力で押しつけられたことから、のちに「銃剣憲法」と呼ばれる。
1891年1月、カラカウアが旅先のサンフランシスコで死に、リリウオカラニが女王として即位した。52歳。彼女は、王の力とハワイ人の選挙権を取り戻すため、新しい憲法を定めようとした。1893年1月、その動きを口実に、アメリカ系の一団が「治安委員会」を名乗って立ち上がった。アメリカの公使スティーヴンズは、アメリカ人の生命と財産を守るという名目で、軍艦から海兵隊を上陸させた。1月17日、一団はハワイ王国の政府を倒し、臨時政府を宣言した(ハワイ王国の転覆)。

女王は抵抗しなかった。流血を避けるため、そしてアメリカ政府が事実を知れば正義を回復してくれると信じて、自分は「アメリカ合衆国の優越した力」に一時的に権限を譲るのであって、臨時政府に譲るのではない、という声明を出した。アメリカの大統領クリーヴランドは調査を命じ、転覆はアメリカの公使と軍の不当な関与によるものだと認めて、女王の復位を求めた。だが臨時政府はこれを拒み、1894年、ハワイ共和国を名乗った。
1895年1月、王政の復活を求める人々が蜂起したが、すぐに鎮圧された。女王の住まいの庭から武器が見つかったとして、彼女は捕らえられた。捕らわれた支持者たちの命を救うため、彼女は退位の文書に署名した。軍の法廷で有罪とされ、イオラニ宮殿の一室に8か月あまり閉じ込められた。

幽閉のあいだも、彼女は歌を作り続けた。「女王の祈り」はこの部屋で書かれた歌で、自分を苦しめる者たちをも赦す心を歌っている。いまも世界で知られる「アロハ・オエ」は、それより前の1878年頃に書かれた歌で、恋人たちの別れを歌ったものだが、のちには王国との別れの歌として聴かれるようになった。彼女は生涯に百を超える歌を作曲している。
1898年、アメリカは米西戦争のさなか、太平洋の拠点としてハワイを併合した。リリウオカラニは同じ年、自分の側から見た王国の歴史を英語で本にまとめ、アメリカの人々に訴えた。その後もワシントンに足を運んで、王家の土地の返還を求め続けた。

1917年11月11日、ホノルルの自宅で死去した。79歳。王国が倒れてから、四半世紀が過ぎていた。彼女が残した財産は、ハワイの子どもたちのための財団になり、いまも活動を続けている。
1993年、王国の転覆からちょうど100年後、アメリカ議会は、この転覆がアメリカの関与のもとで不法に行われたことを認め、ハワイの先住民に謝罪する決議を採択した。ハワイの言葉と文化を取り戻そうとする動き(ハワイ語の禁止と復活)のなかで、リリウオカラニは、力に屈しながらも最後まで正義を訴えた女王として、敬意をもって記憶されている。