ヴィタウタス
概要
ヨガイラの従兄弟で、争い、組み、リトアニアを最大にした。黒海まで達し、グルンヴァルトで騎士団を破る。王冠を求めて、戴冠の直前に死んだ。
所属
リトアニア大公国関わったできごと(1)
グルンヴァルトの戦いAD1410年7月15日 · リトアニア軍本文
1350年ごろ、リトアニア大公国を共同で治めていたケーストゥティスの子として生まれた。伯父のアルギルダスが東のルーシの地を広げ、父ケーストゥティスが西でドイツ騎士団と戦う、という分担の時代である。リトアニアはまだヨーロッパで最後の大きな異教の国で、騎士団は「異教徒への十字軍」を掲げて毎年のように攻め込んでいた。アルギルダスの子がヨガイラ(ヴワディスワフ2世)で、ヴィタウタスとは従兄弟どうしになる。若いころの二人は親しかったと伝えられる。

1377年にアルギルダスが死ぬと、その関係が崩れた。ヨガイラが騎士団とひそかに通じたことから、ケーストゥティスとヨガイラが争い、1382年、ケーストゥティスとヴィタウタスは和平の交渉に出向いたところを捕らえられた。父はクレヴァの城の牢で数日後に死んだ。ヨガイラの側は自殺と言い、ヴィタウタスは殺されたと信じた。ヴィタウタス自身は、見舞いに来た妻の侍女の服を着て牢を抜け出したと伝えられる。
逃げた先は、父の宿敵だったドイツ騎士団だった。そこで洗礼を受け、騎士団の兵を借りて従兄弟と戦う。だが1384年、ヨガイラと和解すると、騎士団から預かった城を焼いて引き上げた。1385年、ヨガイラはポーランドの女王ヤドヴィガとの結婚を決め(クレヴォの合同)、翌年ポーランド王となって、リトアニアにキリスト教を入れた。リトアニアの統治をめぐって再び不満を抱いたヴィタウタスは、1390年にまた騎士団に身を寄せ、2年後にはまた寝返って和解した。騎士団と組んでは離れることを繰り返したこの若い時期を、騎士団側の年代記は裏切り者として書いている。

1392年の取り決めで、ヴィタウタスはリトアニアの統治を任された。形の上ではポーランド王ヨガイラの下に立つが、実際には大公として、自分の宮廷と軍を持って国を動かした。ここから40年近い治世が始まる。
最初の大きな賭けは東だった。キプチャク汗国の位を追われたトクタミシュがヴィタウタスのもとへ逃げてくると、彼を助けてハン国の内側に影響力を伸ばそうとした。1399年、ヴォルスクラ川のほとりで、ティムールに後押しされたハン国の実力者エディゲの軍と戦い、大敗する。多くの公たちが戦死し、ヴィタウタス自身も辛うじて逃げた。草原を支配するという夢はここで止まった。

それでも国は大きかった。ドニエプル川の下流から黒海の岸辺の一部にまで支配が及び、バルト海から黒海にまたがる国として、当時のヨーロッパで最も広い国の一つになった。クリミアなどからタタール人やカライム派の人びとを移り住ませたとされ、その子孫の共同体は、いまもリトアニアのトラカイなどに残っている。
西では、騎士団との決着が残っていた。焦点は、リトアニアとプロイセンの間にあるジェマイティア地方である。ヴィタウタスは一度これを騎士団に譲ったが、その住民の反乱をひそかに支えた。1409年、ついに戦争になる。翌1410年、ヨガイラのポーランド軍とヴィタウタスのリトアニア軍は合流し、グルンヴァルトの戦いで騎士団の主力を破った。戦いの序盤、右翼のリトアニア軍とタタール騎兵が退いたことが知られている。それが敵を誘い出すための偽装の退却だったのか、本当に崩れたのかは、いまも議論が分かれている。

勝利の後も、ジェマイティアの帰属はすぐには決まらなかった。1414年からのコンスタンツ公会議には、リトアニアとポーランドの使節がジェマイティアの人びとを連れて行き、騎士団の「改宗のための戦い」という言い分に反論した。1422年の和約で、ようやくジェマイティアはリトアニアのものになる。
晩年のヴィタウタスが求めたのは王冠だった。大公ではなく王になれば、リトアニアはポーランドと対等な王国になる。1429年、ルーツクに諸侯が集まった会議の席で、神聖ローマ皇帝のジギスムントが王冠を贈ることを約束した。ポーランドの貴族たちは、これを同君の結びつきを壊すものとして強く反対した。1430年、戴冠式の日取りが決まり、各国の客がヴィリニュスに集まったが、王冠を運ぶ使節はポーランド領内で止められ、届かなかった。

その年の秋、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイの城で死んだ。80歳前後だった。落馬が病のきっかけになったとも伝えられる。彼の死後、リトアニアは再び後継をめぐる争いに入り、王冠の話も立ち消えになった。
リトアニアでは「大公(ディディシス)」と呼ばれ、国の最盛期を築いた人として記憶されている。1930年の没後500年には国を挙げて記念行事が行われ、多くの通りや広場にその名が付いた。自分の父を死なせた従兄弟と、最後には肩を並べて戦った人生でもあった。