できごと

ペルディッカスの死

Death of Perdiccas
BC321年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民コイサンサハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マケドニア西アフリカの穀作農民アレクサンドロスの帝国マウリヤ朝ヒンドゥーの諸王国と共和国マガダガリア諸部族カルタゴシャンシュン王国カルタゴメロエケルト系の人びとPlain-Pottery cultureエチオピア高原の農民Brushed Pottery cultureカッパドキアカタバーンBell-shaped burials cultureアトロパテネMilograd cultureヒンドゥーの諸王国ハドラマウトアルメニアEastern Masurian cultureボスポロス王国ギリシア諸ポリスブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureBC321年ペルシウム
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC321年の版図を描いています(33勢力)。

概要

王の指輪を託された摂政が、王の遺体をプトレマイオスに奪われてエジプトを攻め、ナイルを渡ろうとして2000人を鰐と流れに失った。夜、部下のセレウコスとアンティゲネスが天幕で刺した。帝国を一つに保とうとした最後の男。それから40年、将軍たちは分け合った。

場所

ペルシウム
31.04°N 32.54°E · エジプト・シナイ半島

関わった人(3)

ペルディッカス?–BC321年 · 刺されたプトレマイオス1世BC367年頃–BC282年 · 遺体を奪ったセレウコス1世BC358年頃–BC281年 · 刺した

本文

紀元前323年6月、アレクサンドロス3世はバビロンで熱病に倒れ、32歳で亡くなった(アレクサンドロスの死)。ギリシアからインダス川までを征服した王は、跡継ぎを決めていなかった。死の床で、王国を誰に遺すのかと問われ、「最も強い者に」と答えたと伝えられる。話そのものは後の歴史家が伝えたもので、確かなことは分からない。ただ、王が身につけていた印章の指輪を、側近の筆頭だったペルディッカスに渡したことは、多くの史料が一致して伝えている。

王の死の直後、バビロンでは跡継ぎをめぐって軍が割れた。アレクサンドロスの妃ロクサネは身ごもっていたが、子はまだ生まれていない。騎兵を率いる貴族たちは、その子が男子なら王にと唱え、ペルディッカスもこちらに立った。歩兵たちは、王の異母兄で、知恵に障りがあったとされるアリダイオスを推した。両者は一時、武器を取って向き合うところまでいった。結局、アリダイオスをフィリッポス3世として立て、生まれてくる子が男子ならともに王とすることで折り合った。生まれた男子は、アレクサンドロス4世となる。

ペルディッカス
ペルディッカスWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

二人の王はどちらも国を治められない。実際の権力は、王の後見役となったペルディッカスが握った。彼はまず、歩兵の側の首謀者たちを処刑して軍を押さえ、続いて将軍たちに各地の総督の地位を割り振った。プトレマイオス1世にはエジプト、アンティパトロスにはマケドニアとギリシア、リュシマコスにはトラキア、アンティゴノスには小アジアのフリギアが与えられた。王の書記官だったエウメネスにはカッパドキアが当てられ、ペルディッカスは自ら兵を出してその地を平定してやった。

ペルディッカスは、帝国を一つのまま、王家の名のもとに保とうとした。しかしそれは、将軍たちの上に立ち続けることでもあった。彼はアンティパトロスの娘ニカイアとの結婚を約束していたが、アレクサンドロスの母オリュンピアスからは、王の妹クレオパトラを妻にどうかと持ちかけられた。王の妹を娶れば、王家の一員として王位をうかがう立場に近づく。彼はニカイアと結婚しながら、クレオパトラとの話も進めようとしたと伝えられる。小アジアで彼の追及を受けたアンティゴノスは、マケドニアへ逃れて、アンティパトロスにペルディッカスの野心を知らせた。アンティパトロスとクラテロスは兵を挙げ、プトレマイオスも彼らと手を結んだ。

ナイル川。ペルディッカスはこの川の渡河に失敗した
ナイル川。ペルディッカスはこの川の渡河に失敗したWikimedia Commons Marc Ryckaert ( MJJR ) · CC BY 3.0

決裂を決定的にしたのは、王の遺体だった。アレクサンドロスの遺体は、豪華な霊柩車に乗せられ、マケドニアへ運ばれることになっていた。ところが、紀元前321年ごろ、シリアを進む霊柩車をプトレマイオスが迎えに出て、そのままエジプトへ運び去った。王はシワの神託の地に葬られることを望んでいた、というのがその言い分だった。遺体はまずメンフィスに置かれ、のちにアレクサンドリアへ移される。先王の遺体を葬ることは、跡を継ぐ者の務めであり、権威の印だった。

ペルディッカスは、二人の王と大軍を連れてエジプトへ向かった。小アジアの守りはエウメネスに任せた。ナイル川の東の端、ペルシウムの近くまで来ると、彼は「らくだの砦」と呼ばれる要塞を攻めたが、プトレマイオス自身が城壁の上で長槍を振るって守り、落とせなかった。

Ptolemy I Soter Louvre Ma849
プトレマイオス1世Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

次に彼は、メンフィスの近くでナイルを渡ろうとした。歴史家ディオドロスによれば、川上に象を並べて流れを弱め、その下流を兵に渡らせた。ところが、最初の兵が渡るうちに川底の砂がえぐられ、流れは深くなった。残された兵は渡れず、すでに渡った兵は戻れない。中洲に取り残された兵の多くが流され、ワニに襲われた。この渡河で2000人ほどが命を落としたという。

兵たちの怒りは、指揮官に向かった。その夜、将校のペイトン、銀盾隊と呼ばれた古参兵の隊長アンティゲネス、そして騎兵の指揮官だったセレウコス1世らが天幕に押し入り、ペルディッカスを刺し殺した。翌日、プトレマイオスは敵の陣を訪れ、兵たちに食料を配った。兵たちは彼に後見役になるよう求めたが、プトレマイオスは断り、エジプトに留まることを選んだ。帝国全体よりも、自分の取り分を確実に守るほうを選んだのである。

セレウコス1世のブロンズ像(ナポリ国立考古学博物館)
セレウコス1世Wikimedia Commons Allan Gluck · CC BY 4.0

ペルディッカスの死の年については、紀元前321年とする説と320年とする説があり、決着していない。死の知らせとほぼ同じころ、小アジアではエウメネスがクラテロスを戦場で討ち取っていたが、もはや意味のない勝利になった。その後、シリアのトリパラデイソスで将軍たちが集まり、アンティパトロスが新しい後見役となって、総督の地位が割り振り直された。アンティゴノスが軍の指揮を握り、セレウコスはバビロンの総督になった。

帝国を一つに保とうとする試みは、ペルディッカスとともに終わったと言ってよい。彼を傲慢で人に好かれない人物と描く史料は多いが、王家への忠誠の形を最後まで守ろうとしたのも彼だった。その後40年にわたって、将軍たちはディアドコイ戦争を戦い、イプソスの戦いを経て、帝国はエジプトのプトレマイオス朝、アジアのセレウコス朝、マケドニアのアンティゴノス朝などに分かれていった。二人の王は、その争いのなかでどちらも殺された。アレクサンドロスの血を引く王は、一人も残らなかった。

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