オムドゥルマンの戦い
概要
機関銃を持つ軍が、持たない軍を一方的に破った。技術の差が植民地化の速さを決めた例。
場所
15.64°N 32.48°E · スーダン
本文
1881年、エジプトの支配下にあったスーダンで、ムハンマド・アフマドという宗教指導者が、自らを救世主(マフディー)と名乗った(ムハンマド・アフマド)。重い税と腐敗した役人への不満、外国人に頼るエジプト政府への反発が、多くの人々を彼のもとに集めた。マフディーの軍はエジプト軍を次々に破り、1885年1月、首都ハルツームを落とした。守っていたイギリスの将軍チャールズ・ゴードンは殺された(ハルツームの陥落)。マフディーはその半年後に病死したが、後継者のハリーファ、アブドゥッラーヒが、ナイル川をはさんでハルツームの対岸にあるオムドゥルマンを都として国を治めた。
イギリスはしばらくスーダンから手を引いていたが、1890年代、アフリカをめぐる列強の争いが激しくなると、態度を変えた。ナイル川の上流を他の国、とくにフランスに押さえられれば、エジプト、そしてスエズ運河の安全が脅かされる。1896年、エジプト軍の司令官キッチナーは、イギリスとエジプトの軍を率いて、ナイル川をさかのぼる遠征を始めた。

キッチナーは急がなかった。砂漠を突っ切る鉄道を敷き、ナイル川に砲艦を浮かべ、補給の道を確保しながら、2年かけて南へ進んだ。1898年4月にはアトバラ川のほとりでマフディー国家の軍を破った。8月の終わり、キッチナーの軍はオムドゥルマンの北に達した。その兵はおよそ2万5000、うちイギリス兵が8000ほどで、残りはエジプト兵とスーダン兵だった。
9月2日の夜明け、ハリーファの軍、5万を超える兵が、ナイル川を背にしたキッチナーの陣地に向かって押し寄せた。キッチナーの側には、1分間に数百発を撃てるマキシム機関銃が並び、射程の長いライフルを持つ歩兵と大砲、そして川には砲艦がいた。マフディー国家の兵の多くは、槍や刀、古い銃で戦った。彼らは開けた平地を突き進み、陣地に届く前に、何百メートルも手前で撃ち倒された。

午前中のうちに、勝敗はついた。マフディー国家の軍の死者は1万人を超え、負傷者もそれに近い数にのぼったとされる。イギリス・エジプト軍の死者は50人に満たなかった。戦いというより、一方的な殺戮だった。負傷して戦場に残された人々の多くが、手当てを受けられずに死んだ。
この戦いで、イギリスの第21槍騎兵連隊は、昔ながらの騎兵突撃をしかけ、待ち伏せていた敵の中に飛び込んで多くの死傷者を出した。その中に、のちの首相、若いチャーチルがいた。彼は新聞の特派員を兼ねて従軍しており、戦いの記録『河畔の戦争』を書いた。チャーチルはこの本で、戦場で負傷者が殺されたことや、キッチナーがハルツームにあったマフディーの墓を壊し、遺骨を川に捨てさせたことを批判している。
同じ1898年、詩人ヒレア・ベロックは、機関銃を持つ者と持たない者との差を皮肉る詩を書いた。19世紀の後半、アフリカの植民地化がわずか数十年のうちに進んだのは、機関銃や後装式の銃、蒸気船、そしてマラリアの薬のキニーネといった技術の差によるところが大きい(アフリカ分割)。オムドゥルマンは、その差がもっとも露骨な形で現れた戦いだった。
オムドゥルマンの戦いの数週間後、キッチナーは砲艦でナイル川をさらにさかのぼり、ファショダでフランスの探検隊と向き合った。英仏は一触即発となったが、フランスが引いて決着した。スーダンは翌1899年から、名目上はイギリスとエジプトの共同統治という形で、実際にはイギリスの支配下に置かれた。
ただし、技術の差がいつも勝敗を決めたわけではない。2年前の1896年、エチオピアの皇帝メネリク2世は、ヨーロッパから買い入れた近代的な銃と大軍で、アドワでイタリア軍を打ち破り(アドワの戦い)、独立を守った。武器を手に入れ、それを使いこなす組織を持つかどうかが、分かれ目だった。