ランゴバルド王国の滅亡
概要
カールが教皇の求めでアルプスを越え、パヴィアを9か月囲んで王デシデリウスを修道院に送った。「ランゴバルドの王」を兼ねた。妃はデシデリウスの娘だった。離縁していた。200年の王国が終わり、フランクがイタリアに入り、教皇領の形が決まった。
場所
45.19°N 9.16°E · イタリア
関わった人(1)
カール大帝AD748年頃–AD814年 · 王を兼ねた本文
568年、ゲルマン系のランゴバルド人は、王アルボインに率いられてアルプスを越え、北イタリアに入った(ランゴバルドのイタリア侵入)。ユスティニアヌスの戦争でゴート人の王国が滅んだばかりの、疲れ切ったイタリアである。ランゴバルドはパヴィアを都に王国を建て、半島の中部と南部にもスポレートとベネヴェントの公国を作った。ビザンツ帝国の手には、ラヴェンナと、ローマ、ナポリ、南端の地域など、海沿いの土地が残った。イタリアは、それから二百年、ランゴバルドとビザンツの領土がまだらに入り組む土地になった。
ローマの教皇は、名目の上ではビザンツ皇帝の臣下だったが、皇帝は遠く、教皇は自分でローマを守らなければならなかった。751年、ランゴバルドの王アイストゥルフがビザンツのイタリア支配の拠点ラヴェンナを奪い、ローマにも迫った。教皇ステファヌス2世はアルプスを越えてフランク王国へ赴き、即位したばかりのピピン3世(小ピピン)に助けを求めた。ピピンは754年と756年にイタリアに攻め込んでアイストゥルフを屈服させ、ラヴェンナなどの土地をビザンツには返さず、教皇に与えた(ピピンの寄進)。これが教皇が治める領土、教皇領の始まりである。

756年に王となったデシデリウスは、フランクと手を結ぶことで王国を守ろうとした。娘をピピンの二人の息子、カール(のちのカール大帝)とカールマンに嫁がせようとし、770年、カールはデシデリウスの娘を妃に迎えた。この妃の名は史料に残っておらず、デシデラータという名は後世の呼び名である。ところが翌771年、カールは理由を示さずに妃を実家へ帰した。同じ年の暮れにカールマンが死ぬと、カールはその領土を併せた。カールマンの未亡人ゲルベルガは、幼い息子たちを連れてデシデリウスのもとへ逃げ込んだ。
デシデリウスは、カールマンの子をフランク王として塗油するよう新しい教皇ハドリアヌス1世に迫り、教皇領の町々を攻めた。772年から773年にかけて、ハドリアヌスはカールに使者を送って助けを求めた。773年、カールは大軍を二手に分け、自らはモン・スニ峠を、叔父ベルナールの軍はグラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアに入った。峠の出口の守りを回り込まれたランゴバルド軍は崩れ、デシデリウスは都パヴィアに立てこもった。息子のアデルキスはヴェローナに入ったが、のちにコンスタンティノープルへ逃れた。

パヴィアの包囲は773年の秋から9か月に及んだ。そのあいだにカールは包囲の陣を離れ、774年の復活祭をローマで過ごした。教皇ハドリアヌスはカールを迎え、カールは父ピピンの寄進を確かめて、教皇に土地を与えると約束した。教皇と、フランクの王が、ローマで手を握ったのである。774年6月、飢えと病に苦しんだパヴィアは開城した。デシデリウスは妻とともにフランク王国へ送られ、北フランスのコルビー修道院で余生を送ったと伝えられる。
カールはこのときから、「フランク人とランゴバルド人の王」を名乗った。ランゴバルドの王国を滅ぼして別の国にしたのではなく、自分がその王を兼ねたのである。ランゴバルドの貴族の多くはそのまま領地を保ち、ランゴバルドの法も使われ続けた。643年に王ロタリが編ませた法典をはじめとするランゴバルドの法は、11世紀ごろまで北イタリアで生き続けた。王国の南のベネヴェント公国は、カールに臣従を誓いながらも事実上の独立を保ち、11世紀にノルマン人に滅ぼされるまで続いた。781年、カールは幼い息子ピピンを教皇の手で「イタリア王」に戴冠させた。
ランゴバルド王国の滅亡は、イタリアと教皇とフランクの関係を決めた。教皇は、遠いビザンツ皇帝ではなく、アルプスの北の王を守り手に選んだ。その結びつきの先に、800年のクリスマスにローマで行われたカールの戴冠がある(カール大帝の戴冠)。以後、ドイツの王が皇帝としてイタリアの王を兼ね、アルプスを越えてローマへ向かう歴史が何百年も続いていく。カールの宮廷には、ランゴバルドの貴族出身の修道士パウルス・ディアコヌスが招かれ、のちに『ランゴバルド史』を書いて、滅びた民の歴史を伝えた。

ランゴバルドの名は地名に残った。北イタリアのロンバルディア地方である。中世にこの地方から出た商人や両替商はロンバルドと呼ばれ、ロンドンの金融街のロンバード街は彼らにちなむ。12世紀には、ロンバルディアの都市が同盟を結び、皇帝フリードリヒ1世の軍を破った(レニャーノの戦い)。
パヴィアの町には、いまもランゴバルドの王たちの時代の教会サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロが残る。8世紀、王リウトプランドがサルデーニャ島からアウグスティヌスの遺骨を買い取って納めたと伝えられる教会で、6世紀の哲学者ボエティウスの墓もここにある。