ヴォー・グエン・ザップ
概要
歴史教師から将軍になった。ディエンビエンフーでフランス軍を降伏させ、植民地帝国の終わりを早めた。
関わったできごと(1)
ディエンビエンフーの戦い1954年 · ベトナム側 · 総指揮本文
ヴォー・グエン・ザップは1911年8月25日、ベトナム中部のクアンビン省の農村に生まれた。父は漢学の素養のある農民だった。フランスの植民地支配のもと、少年は古都フエの名門の学校に入ったが、反仏の学生運動にかかわって退学になった。1930年には投獄も経験している。のちにハノイのインドシナ大学で法律と経済を学び、生計を立てるため、私立の学校で歴史を教えた。フランス革命やナポレオンの戦いを語る授業は、生徒たちに評判だったという。軍事の正規の訓練は、一度も受けていない。

教壇に立ちながら、ザップは共産主義者の地下活動に加わった。1940年、フランス本国がドイツに敗れ、日本軍がインドシナに進駐すると、党は彼を中国へ送った。そこで初めてホー・チ・ミンに会った。ザップが国境の山地で抗日・抗仏の組織づくりを始めたころ、ハノイに残った妻クアン・タイは捕らえられ、獄中で死んだ。その姉で党の指導者だったミン・カイは、フランス当局に処刑された。ザップが妻の死を知ったのは、何年もたってからだったという。
1944年12月、ザップはわずか34人で「ベトナム解放軍宣伝隊」を結成した。のちのベトナム人民軍の始まりである。1945年8月、日本の降伏とともにベトミンは権力を握り、9月2日、ホー・チ・ミンがハノイで独立を宣言した(ベトナム民主共和国の独立宣言)。ザップは内務相、のちに軍の総司令官となった。
戻ってきたフランスとの戦争は、1946年の末から8年続いた。ザップの軍は初め山地のゲリラにすぎなかったが、中国の共産党政権が成立すると、その援助で砲兵を持つ正規軍に育っていった。1951年には紅河デルタで大攻勢をかけたが、フランス軍の火力と空軍に打ち負かされ、多くの兵を失った。ザップは失敗から学ぶ将軍だった。
1953年、フランス軍はラオスとの国境に近い山あいの盆地ディエンビエンフーに、大きな陣地を築いた。周りの山々は険しく、敵が重い大砲を運び上げることはできないと考えた。ザップは、分解した大砲を何万人もの兵士と民衆に担がせ、ロープで引かせ、ジャングルを切り開いて山の上まで運ばせた。荷物を満載した自転車を押して、補給を運ぶ人々の列が続いた。1954年1月、いったん決めた総攻撃の直前に、ザップはこのままでは勝てないと判断して攻撃を取りやめ、時間をかけて陣地を締め上げるやり方に切り替えた。生涯で最も難しい決断だったと、本人は後に語っている。
3月13日、攻撃が始まった(ディエンビエンフーの戦い)。包囲する側が、逆に高所から撃たれる形になった。フランス軍の砲兵指揮官は、敵の大砲を黙らせると請け合っていたのに果たせず、自ら命を絶った。滑走路は砲撃で使えなくなり、補給は落下傘だけになった。ザップの軍は塹壕を掘り進めて陣地を一つずつ奪い、5月7日、フランス軍は降伏した。56日の戦いだった。直後のジュネーヴの会議で、ベトナムは北緯17度線で南北に分けられた。アジアの植民地の軍が、ヨーロッパの正規軍を正面から打ち破ったこの戦いは、アルジェリアをはじめ各地の独立運動を勇気づけた。

その後もザップは国防相として、アメリカとその支えた南ベトナムとの戦争(ベトナム戦争)を指導した。ただし、党内で権力を強めたレ・ズアンらとの関係は複雑で、すべての作戦をザップが立てたわけではない。1968年のテト攻勢は、南の都市を一斉に襲ったが、多くの兵を失い、軍事的には失敗とされる。だがアメリカの世論を決定的に変え、撤退への道を開いた。ザップ自身はこの攻勢の計画に慎重だったともいわれ、その役割はいまも議論がある。1975年、サイゴンを落とした最後の攻勢を現地で指揮したのは、かつての部下ヴァン・ティエン・ズンだった。
ザップの戦いは、膨大な犠牲の上に立っていた。兵の命を惜しまない将軍だという批判は、敵からも味方からも向けられた。戦後は次第に政治の中心から遠ざけられ、1982年には党の政治局を退いた。それでも国民の人気は衰えなかった。晩年の2009年には、中部高原のボーキサイト鉱山の開発が環境を壊し、中国の影響を招くとして、公開の書簡で反対している。

2013年10月4日、ザップはハノイで死んだ。102歳だった。故郷クアンビンの海を望む丘に葬られた。歴史教師から身を起こし、20世紀の二つの大国と戦った将軍の死には、多くの人が弔問の列を作った。