カザン攻略
概要
イヴァン4世が15万と大砲150門でカザン・ハン国を囲み、坑道に火薬を詰めて城壁を吹き飛ばした。ジョチ・ウルスの後継の一つが消えた。モンゴルに支配された側が、モンゴルの後継国を併合した最初。ヴォルガが全部ロシアのものになり、東はシビル、ウラル、シベリアへ。赤の広場の聖ワシリイ大聖堂は、この勝利の記念に建てられた。
場所
55.80°N 49.11°E · ロシア・タタールスタン共和国
関わった人(1)
イヴァン4世(雷帝)AD1530年8月25日–AD1584年3月28日 · 攻めた本文
13世紀のバトゥの西征のあと、ルーシの諸公国は、ヴォルガ川の下流に都を置いたジョチ・ウルス(キプチャク汗国)に貢ぎ物を納め、公の位もその承認を受けなければならなかった。この支配は、ロシアでは「タタールのくびき」と呼ばれてきた。14世紀の後半からモスクワ大公国が力をつけ、1380年のクリコヴォの戦いでジョチ・ウルスの軍を破ったが、貢納はその後も続いた。モスクワが貢納をやめたのは15世紀の後半、ジョチ・ウルスがいくつものハン国に割れて弱まってからである。
カザン・ハン国は、その分裂のなかから生まれた国の一つだった。15世紀の半ば、ジョチ・ウルスの王族ウルグ・ムハンマドが、ヴォルガ川の中流、カマ川との合流点に近いカザンを拠点に国を建てた。住民はイスラームを信じるタタール人を中心に、チュヴァシ人、マリ人、ウドムルト人などの森の民が混じっていた。カザンはヴォルガの水運と北の森の毛皮の交易を押さえ、市場では各地から連れてこられた捕虜が奴隷として売られていた。カザンの軍はしばしばモスクワの領地に攻め込み、人々をさらっていった。

16世紀の前半、カザンの王座はモスクワの後押しを受けるハンと、南のクリミア・ハン国の一族のハンのあいだで何度も入れ替わった。1521年には、クリミアとカザンの軍がそろってモスクワ近くまで攻め寄せ、多くの人を捕虜にして引き上げている。モスクワにとってカザンは、東の国境を脅かす敵であると同時に、ヴォルガを下ってカスピ海へ、東のウラルへと向かう道をふさぐ栓でもあった。
1547年1月、16歳のイヴァン4世(雷帝)は、大公ではなく「ツァーリ」として戴冠した。ツァーリはローマ皇帝を意味するカエサルに由来する称号で、ルーシではそれまでビザンツの皇帝やジョチ・ウルスのハンを指していた。若いツァーリはすぐにカザンを攻めた。だが1547年から48年にかけての冬の遠征では、ヴォルガの氷が割れて大砲が沈み、1549年から50年の遠征では、雨と雪解けにはばまれて引き返した。補給の道が長すぎ、包囲を続けられなかったのである。

イヴァンの側はやり方を変えた。1551年の冬、カザンから数百キロ上流のウグリチの近くの森で丸太を切り、城壁や塔や教会の部材を作って印をつけた。春、それを筏に組んでヴォルガを流し下ろし、カザンの30キロほど手前、スヴィヤガ川がヴォルガに注ぐ丘の上で、4週間ほどで組み立てた。この砦スヴィヤシュスクは、カザンの目の前の兵站の基地になり、まわりの森の民の一部はモスクワの側に付いた。
1552年6月、イヴァンはモスクワを出た。年代記は兵を15万と記すが、実際にはそれより少なかったと見る研究者が多い。大砲は150門ほどだったとされる。出発してまもなく、クリミアのハンが背後のトゥーラを攻めたが、ロシア軍はこれを退けた。8月の下旬、ロシア軍はカザンを包囲した。カザンの城壁は、樫の丸太を二重に組んで間に土を詰めたもので、中には兵と住民が立てこもっていた。ハンはアストラハンの王族から迎えられたヤディガル・ムハンマドで、降伏の呼びかけを拒んだ。

ロシア軍は大砲で城壁を撃ち、町を見下ろす木の塔を組み上げて、上から砲撃した。そして坑道を掘った。坑道の工事を指揮したのは外国から招かれた技師で、ロシアの年代記は彼を「ロズミスル」、知恵のある者と呼ぶだけで、どこの国の人だったかはイングランド人、ドイツ人、リトアニアの人など、説が分かれている。9月の初め、ロシア軍は町の人々が水を汲みに通う地下の道の下まで坑道を掘り進め、火薬を爆発させた。町は水の手を失った。
10月2日の朝、城壁の下に掘り進めた坑道に詰めた大量の火薬が爆発し、城壁が崩れた。ロシア軍は崩れた所から町になだれ込み、激しい市街戦になった。夕方までに町は落ちた。年代記によれば、武器を持つ男はほとんどが殺され、女と子どもは捕虜にされ、捕らえられていたロシア人の捕虜は解き放たれた。ヤディガルは生け捕りにされ、のちにキリスト教の洗礼を受けてシメオンと名乗り、モスクワの貴族として暮らした。
カザンが落ちても、周りの森の民の抵抗はその後数年にわたって続いた。それでも大勢は決していた。1556年にはヴォルガの河口のアストラハン・ハン国も併合され、ヴォルガ川は源流からカスピ海まで、すべてモスクワのものになった。東への道も開いた。1580年代には、コサックの頭目イェルマークがウラル山脈を越えてシビル・ハン国を攻め(イェルマークのシビル汗国征服)、ロシアはそこからシベリアを東へ進んで、17世紀の半ばには太平洋に達した。
カザンの攻略は、ロシアの歴史の向きを変えた出来事とされる。かつてジョチ・ウルスに貢ぎ物を納めていた側が、その後継の国を征服し、併合した。そしてイスラームを信じる人々とその土地を、まるごと自分の国の中に取り込んだ。ロシアがロシア人だけの国ではなく、多くの民族と宗教を抱える帝国になっていく出発点を、ここに見る歴史家は多い。イヴァンは称号に「カザンのツァーリ」を加え、のちに「アストラハンのツァーリ」も加えた。一方、カザンでは町のモスクが壊され、タタール人は城壁の内側から追い出されて町の外に住まわされた。
モスクワの赤の広場に立つ聖ワシリイ大聖堂は、このカザンの勝利を記念して、1555年から61年にかけて建てられた。正式には、堀の上の生神女庇護大聖堂という。カザン攻撃の山場となった10月1日が、聖母の庇護を祝う祭日だったことによる。中央の高い塔のまわりを、それぞれ形の違う八つの聖堂が囲む。のちに、モスクワで民衆に慕われた聖愚者ワシリイを祀る礼拝堂が加えられ、その名で呼ばれるようになった。イヴァンは、二度と同じものを作らせないために建築家の目をつぶさせたという伝説があるが、建築家の一人はその後も仕事を続けた記録があり、後世の作り話とされる。
カザンはいま、ロシア連邦のタタールスタン共和国の首都である。イヴァンの時代に築かれたクレムリンの城壁の中には、正教の大聖堂と、2005年に完成した大きなモスクが並んで立っている。