概要
プロイセン王、初代ドイツ皇帝。軍人。1848年にベルリンの群衆を撃たせて「散弾の王子」と呼ばれ、イギリスへ逃げた。1861年、64歳で王。軍制改革で議会と対立し、ビスマルクを呼んだ。「ビスマルクの下で皇帝であるのは難しい」と言った。ビスマルクの言うことを聞いた。90歳。次の息子は99日で死に、孫のヴィルヘルム2世がビスマルクを辞めさせた。
所属
ドイツ帝国関わったできごと(1)
ドイツ帝国の成立AD1871年1月18日 · 皇帝本文
1797年、ベルリン。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男。軍人として育った。1814年、ナポレオン戦争の最後の戦いに出た。兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が王で、子がなく、ヴィルヘルムが皇太子。
1848年3月、ベルリンの革命。ヴィルヘルムは群衆への発砲を主張した。「散弾の王子(カルテッチェンプリンツ)」。彼の屋敷が襲われそうになり、「国民の財産」と貼り紙をして、イギリスへ逃げた。数か月で戻り、1849年、バーデンの革命を軍で潰した。
1858年、兄が精神を病んで、摂政。1861年、王。64歳。軍制改革(兵役を3年に、常備軍を増やす)で、議会が予算を拒んだ。退位を考えた。1862年9月、ビスマルクを首相に呼んだ。ビスマルクは議会なしで予算を執行した(「鉄と血」)。ヴィルヘルムは反対したことも多かった。1866年、ケーニヒグレーツでオーストリアに勝ったあと、ウィーンへ進みたがり、ビスマルクが止めた(オーストリアを敵に残さないため)。1870年、フランスとの戦争を望まず、エムスの電報で引きずられた。1871年1月18日、鏡の間。「ドイツ皇帝」の称号を嫌った(「プロイセン王のほうがよい」)。式の後、ビスマルクと口をきかなかった、と言う。
1878年、2度暗殺を狙われた(2度目は散弾で重傷)。ビスマルクはそれを口実に社会主義者鎮圧法を通した。
1888年3月9日、死んだ。90歳。「ビスマルクの下で皇帝であるのは難しい」と言った、と伝える。息子フリードリヒ3世は喉頭癌で99日で死に、孫のヴィルヘルム2世が29歳で皇帝になって、1890年、ビスマルクを辞めさせた。「三皇帝の年」。