人物

ヴィルヘルム1世

Wilhelm I
AD1797年3月22日 – AD1888年3月9日(享年90)
ドイツ帝国重要度 4

概要

プロイセン王、初代ドイツ皇帝。軍人。1848年にベルリンの群衆を撃たせて「散弾の王子」と呼ばれ、イギリスへ逃げた。1861年、64歳で王。軍制改革で議会と対立し、ビスマルクを呼んだ。「ビスマルクの下で皇帝であるのは難しい」と言った。ビスマルクの言うことを聞いた。90歳。次の息子は99日で死に、孫のヴィルヘルム2世がビスマルクを辞めさせた。

所属

ドイツ帝国

関わったできごと(1)

ドイツ帝国の成立AD1871年1月18日 · 皇帝

本文

ヴィルヘルム1世は、プロイセン王で、1871年に成立したドイツ帝国の最初の皇帝である。ドイツ統一は首相ビスマルクの業績として語られることが多い。だが、議会と衝突して退位まで考えたこの王がビスマルクを呼び、その後26年間、反対しながらも最後には彼を使い続けたことがなければ、統一は違う形になっていた。

ヴィルヘルム1世の肖像
ヴィルヘルム1世の肖像Wikimedia Commons Wilhelm Kuntzemüller · Public domain

1797年、ベルリンで、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男として生まれた。9歳のとき、プロイセンはイエナでナポレオンに大敗し、王家は東の果てのケーニヒスベルクまで逃れた。国民に慕われた母ルイーゼ王妃は、その屈辱の中で34歳で死んだ。少年は10歳で軍の将校に任じられ、以後、軍人として育った。1814年、16歳でナポレオンとの戦いに加わり、フランスで戦功を立てて鉄十字章を受けた。

若いころ、ポーランドの名門ラジヴィウ家の公女エリーザを愛したが、王家に釣り合う身分ではないとして、父に結婚を許されなかった。1829年、ザクセン・ヴァイマルの公女アウグスタと結婚した。教養が高く自由主義に傾いた妻とは、生涯を通じて意見が合わなかったと言われる。

兄のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1840年に王になると、子のない兄の後継ぎとして「プロイセン公」と呼ばれた。1848年3月、ベルリンで革命が起きると(1848年革命)、ヴィルヘルムは軍で群衆を鎮圧するよう強く主張し、「散弾の王子」と呼ばれて民衆の憎しみを一身に浴びた。身の危険を感じた彼はイギリスへ逃れ、数か月後に戻った。翌年には、南西ドイツのバーデンで起きた革命を軍を率いて鎮圧している。

1848年革命に関わる図版:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot
1848年革命Wikimedia Commons Horace Vernet · Public domain

1857年、兄が脳卒中で倒れ、翌年からヴィルヘルムが摂政になった。1861年1月、兄の死によって63歳で王位を継いだ。その秋、東プロイセンのケーニヒスベルクで戴冠式を行い、王冠を自分の手で頭に載せた。王権は神から授かるものだという信念の表れだった。

王が何よりも力を入れたのは、軍の改革だった。陸軍大臣ローンとともに、兵役を3年に延ばし、常備軍を大きくしようとした。だが議会の多数を占める自由主義者は、この予算を認めなかった。1862年、王は行き詰まり、退位の詔書まで書いた。このときローンが推したのが、パリ駐在の大使ビスマルクである。9月、ポツダム郊外のバーベルスベルクで王と会ったビスマルクは、議会の承認がなくても予算を執行し、王に仕えると誓った。王は退位の文書を破り捨てた。ビスマルクはまもなく議会で、今日の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によって決まる、と演説した。

それから、プロイセンは三つの戦争を戦った。1864年にデンマークと、1866年にオーストリアと、1870年にフランスと。王はビスマルクの外交に何度も反対した。1866年、ケーニヒグレーツでオーストリア軍を破ったあと、王はウィーンまで進んで領土を奪おうとした。ビスマルクは、オーストリアを恨みを残す敵にしないため、それをやめさせようとし、辞職をほのめかしてまで王を説き伏せた。1870年夏、保養地のエムスで、王はフランス大使の要求を穏やかに退け、その経過をベルリンへ電報で知らせた。ビスマルクはその電文を短く削って新聞に発表し、フランスを怒らせて開戦に持ち込んだ。王自身はこの戦争を望んでいなかったと言われる。9月、スダン(セダン)の戦いでナポレオン3世が王の前に降伏した。

スダン(セダン)の戦いに関わる図版:Nap sedan von Wilhelm Camphausen
スダン(セダン)の戦いWikimedia Commons Wilhelm Camphausen · Public domain

1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ドイツ皇帝の即位が宣言された(ドイツ帝国の成立)。王はこの日を喜ばなかった。前日には、プロイセン王国を葬る日だと言って涙を流したと伝えられる。称号をめぐっても、「ドイツの皇帝」を望む王と、諸侯に配慮して「ドイツ皇帝」を主張するビスマルクの間で争いがあった。式のあと、王は壇上から下りてくるビスマルクに目もくれず、そのそばを素通りしたという。

皇帝になってからも、ビスマルクとの関係は変わらなかった。カトリック教会との文化闘争や、労働者向けのビスマルクの社会保険も、首相が主導した。1878年、皇帝は二度狙撃された。二度目は散弾を浴びて重傷を負い、ビスマルクはこれを機に社会主義者を取り締まる法律を通した。このような宰相の下で皇帝でいるのは楽ではない、と皇帝が漏らしたという言葉が伝わっている。それでも皇帝は、決して彼を手放さなかった。

1810年のヴィルヘルム王子を描いた絵(ヨハン・ホイジンガ―画)
1810年のヴィルヘルム王子を描いた絵(ヨハン・ホイジンガ―画)Wikimedia Commons artwork: Johann Heusinger; file James Steakley · Public domain

1888年3月9日、ベルリンで死んだ。91歳の誕生日を目前にしていた。死の床で、疲れている暇はない、と言ったと伝えられる。跡を継いだ息子のフリードリヒ3世は、すでに喉頭がんに侵されていて、99日で世を去った。この年は「三皇帝の年」と呼ばれる。29歳で即位した孫のヴィルヘルム2世は、祖父と違って自ら政治を動かそうとし、1890年にビスマルクを辞めさせた。

ベルリンの西の繁華街には、ヴィルヘルム1世を記念して建てられたカイザー・ヴィルヘルム記念教会がある。第二次世界大戦の空襲で壊れた塔は、修復されずにそのまま残され、いまは戦争を忘れないための記念碑になっている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1797年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →