できごと

オスマン帝国の始まり

Rise of the Ottoman Empire
AD1299年頃
重要度 5
シベリアの諸集団キプチャク汗国Touaregチャガタイ汗国イル汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国ヒンドゥーの小王国群サーミノルウェー神聖ローマ帝国デリー・スルタン朝ハフス朝マリ帝国スウェーデンエチオピア帝国ポーランド王国フランス王国English territoryセルジューク朝マクリアカスティーリャ王国東ローマ帝国カネム=ボルヌハンガリー王国ハドラマウトTeutonic KnightsイエメンMerinidesアラゴン王国アルワブルガール可汗国デンマークマスカットAbdelouadidesシチリア王国ポルトガルセルビアリトアニア大公国スコットランドヴェネツィア共和国AD1299年頃ソユト
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1299年頃の版図を描いています(42勢力)。

概要

ビザンツとルーム・セルジュークの境の、ソユトの小さなトルコ人の首長オスマンが、独立を宣言した、と1299年に置く。夢で、へそから木が生えて世界を覆った、とシャイフ・エデバリが解いた。1326年、息子オルハンがブルサを取った。ガーズィー(信仰の戦士)と、農民と、ビザンツの脱走者。600年、36代。1922年に終わった。

場所

ソユト
40.02°N 30.18°E · トルコ

関わった人(1)

オスマン1世AD1258年頃–AD1326年頃 · 始めた

本文

オスマン帝国の歴史は、伝統的に1299年から数えられる。この年、アナトリアの北西の片隅、ソユトの町を拠点とする小さなトルコ人の集団の首長オスマン1世が、主君だったセルジューク朝から独立した、と後の時代の史書は語る。その小さな集団は、やがて三つの大陸にまたがる大帝国となり、オスマンの名を冠した家は、1922年まで途切れることなく帝位を受け継いだ。ただし、1299年という年に実際に何が起きたのかは、よく分かっていない。

13世紀の末のアナトリアは、ばらばらに割れていた。11世紀にアナトリアに入ったトルコ人は、ルーム・セルジューク朝を建てて半島の大部分を治めていたが、1243年にモンゴル軍に大敗し、その後はモンゴル人の国イルハン朝の属国になって力を失っていった。その西の辺境、ビザンツ帝国との境のあたりには、トルコ系の首長たちが率いる小さな君侯国(ベイリク)が10以上も生まれていた。ゲルミヤン、カラスィ、アイドゥン、メンテシェ、そして内陸の強国カラマン。オスマンの国は、その中でも小さく目立たない一つだった。

1683年、最大版図に達したオスマン帝国
1683年、最大版図に達したオスマン帝国Wikimedia Commons Muhammad782 · CC0

西のビザンツ帝国もまた弱っていた。1204年の第4回十字軍に都を奪われ(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)、1261年にようやくコンスタンティノープルを取り戻したものの、バルカンでの争いに追われ、アナトリアの辺境を守る力は乏しかった。国境の兵への給料は滞り、重い税に苦しむ農民の中には、トルコ人の支配のほうを選ぶ者もいた。

オスマンの国があったのは、古代にビテュニアと呼ばれた地方、ビザンツの大都市ブルサやニカイア、ニコメディアのすぐ近くだった。伝承によれば、オスマンの父エルトゥールルは、東から移ってきた遊牧の一団の長で、セルジュークのスルタンからこの土地を与えられたという。ただしオスマン以前のことは、後の時代の物語でしか伝わっていない。辺境の地には、さまざまな人びとが入り混じっていた。家畜を連れて移動するトルコ人の遊牧民、ビザンツの町や村のギリシア人の農民、イスラームの神秘主義を説く修行者たち、そして信仰のための戦いを掲げて異教徒の土地に攻め入る「ガーズィー(信仰の戦士)」たち。オスマンは、こうした人びとをまとめ、戦利品と土地を分け与えることで、従う者を増やしていった。

ニコポリスの戦いの最終局面を描いた絵
ニコポリスの戦いの最終局面を描いた絵Wikimedia Commons Public domain

オスマンについて同時代の確かな記録が現れるのは、1302年のことだ。ビザンツの歴史家パキメレスは、ニコメディアの近くのバフェウスで、オスマンと呼ばれるトルコ人の首長がビザンツの軍を打ち破ったと書き残した。この勝利で、オスマンの名は辺境に知れ渡り、各地から戦士たちが集まってきたという。1299年という建国の年は、後の時代の史家たちが、この頃の出来事をもとに置いたものと考えられている。

オスマン家の始まりには、有名な夢の物語がある。若いオスマンは、徳の高いイスラームの導師エデバリの家に泊まった夜、夢を見た。導師の胸から月が昇り、オスマンの胸に入った。すると彼のへそから一本の木が生えて、枝が世界を覆い、その根元からはティグリス、ユーフラテス、ナイル、ドナウの四つの大河が流れ出た。エデバリは、神があなたとあなたの子孫に王権を与えるという意味だと夢を解き、自分の娘をオスマンの妻に与えた。この物語は、帝国が大きくなった15世紀に書かれた年代記に現れるもので、王朝の正統性を飾るための伝説と見られている。

ティムールに捕らえられたバヤズィト1世を描いた絵(スタニスワフ・フレボフスキ、1878年)
ティムールに捕らえられたバヤズィト1世を描いた絵(スタニスワフ・フレボフスキ、1878年)Wikimedia Commons Stanisław Chlebowski · Public domain

オスマンの晩年、息子のオルハンは長い包囲の末に、1326年、ビザンツの大都市ブルサを手に入れた。オスマンはその前後に死に、ブルサに葬られた。ブルサは最初の都となり、オルハンはここで貨幣を鋳造し、モスクや学院を建てて、辺境の戦士の集団を国家へと作り変えていった。1331年にはニカイア、1337年にはニコメディアを落とし、隣の君侯国カラスィも併合した。オルハンはビザンツの皇帝家の内紛に援軍を送り、その見返りに皇帝の娘を妻に迎えた。

決定的な一歩は、ヨーロッパへの渡海だった。1354年、ダーダネルス海峡のヨーロッパ側の要地ガリポリの城壁が地震で崩れると、オスマン軍はすぐにそこを占領し、バルカン半島への足場を築いた。オルハンの子ムラト1世は1360年代にアドリアノープル(エディルネ)を落として新しい都とし、1389年にはコソヴォの戦いでセルビアを中心とする連合軍を破った。続くバヤズィト1世は1396年、ニコポリスの戦いでヨーロッパの十字軍を打ち破った。

コソヴォの戦いに関わる図版:Battle of Kosovo, Adam Stefanović, 1870
コソヴォの戦いWikimedia Commons Adam Stefanović · Public domain

だが1402年、東から来たティムールにアンカラの戦いで大敗し、バヤズィトは捕えられて捕囚のうちに死んだ。息子たちが互いに争う10年あまりの空位の時代が続き、国は崩れかけた。それでもオスマン家は立ち直り、1453年、メフメト2世がコンスタンティノープルを攻め落とした(コンスタンティノープル陥落)。辺境の小さな首長国は、ビザンツ帝国の後を継ぐ帝国になった。

なぜ数多くの君侯国の中で、オスマンの国だけがこれほど大きくなったのか。20世紀の前半、オーストリアの歴史家ヴィテックは、信仰のための戦いを掲げるガーズィーの精神こそが原動力だったと論じ、この説は長く定説とされた。だがその後、初期のオスマンの国が、キリスト教徒の家臣や同盟者を積極的に取り込み、ビザンツの貴族とも結婚を重ねていたことが注目されるようになった。今では、ビザンツの都市に最も近い位置にあったこと、宗教や出自を問わず人を取り込む柔軟さ、そして運と指導者たちの才覚が重なった結果と考える研究者が多い。

ファウスト・ゾナーロ画、オスマン軍が艦隊を陸路で金角湾へ運ぶ様子
ファウスト・ゾナーロ画、オスマン軍が艦隊を陸路で金角湾へ運ぶ様子Wikimedia Commons Fausto Zonaro · Public domain

オスマン家は、オスマンから36代、600年あまりにわたって帝位を受け継いだ。父から子へ、あるいは兄弟へと、家系が途切れることは一度もなかった。第一次世界大戦に敗れた後、ケマル・アタテュルクが率いるトルコの大国民議会は、1922年11月1日、スルタンの制度を廃止した。最後のスルタン、メフメト6世はイギリスの軍艦で国を去った。2年後にはカリフの制度も廃止され、オスマン家の人びとは国外へ追放された。ソユトの町には今もエルトゥールルの墓とされる廟があり、毎年、建国の祖たちをしのぶ祭りが開かれている。

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