人物

ジャワハルラール・ネルー

Jawaharlal Nehru
AD1889年11月14日 – AD1964年5月27日(享年74)
インド重要度 4

概要

独立インドの初代首相。どちらの陣営にも属さない道を掲げ、バンドン会議の中心にいた。

関わったできごと(3)

インドの独立AD1947年8月15日 · 初代首相バンドン会議AD1955年 · 主導中印戦争AD1962年10月20日 · 首相

本文

1889年11月14日、北インドのアラーハーバードに生まれた。父モーティーラールは成功した弁護士で、屋敷にはプールがあり、家庭教師がつき、家の中では英語が話された。一族はカシミール出身のバラモン(パンディット)の家系である。のちに独立運動の指導者になる人物としては、およそ似つかわしくない育ちだった。

ジャワハルラール・ネルー(1957年、オランダ)
ジャワハルラール・ネルー(1957年、オランダ)Wikimedia Commons Harry Pot · CC0

15歳でイギリスへ渡り、名門のハロー校、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで自然科学を学び、ロンドンで弁護士の資格を取った。7年をイギリスで過ごし、1912年に帰国する。父の事務所で働き始めたが、法廷の仕事には身が入らなかったと自伝に書いている。1916年に結婚し、翌年、一人娘のインディラが生まれた。

転機は1919年だった。アムリトサルで、集会に集まった非武装の群衆にイギリス軍が発砲し、数百人が死んだ(アムリトサル虐殺)。この頃からガンディーの運動に深く関わり、農村を歩いて、貧しい農民の暮らしを初めて間近に見た。父も弁護士の仕事を捨て、一家は洋服を焼き、手織りの綿布を着るようになった。

士官候補生の制服を着たネルー(英国・ハーロー校)
士官候補生の制服を着たネルー(英国・ハーロー校)Wikimedia Commons Vinayak Razdan scanned the picture · Public domain

ネルーはガンディーとは考え方が違った。ガンディーが村と手仕事の自給を理想としたのに対し、ネルーは近代の科学と工業、社会主義に希望を見ていた。宗教的な言葉で人々を動かすことにも、どこか距離を置いていた。それでもガンディーはこの若者を信頼し、自分の後継者に選んだ。1929年、ラホールの国民会議派大会で40歳のネルーが議長になり、イギリスからの完全な独立を目標に掲げる決議が採られた。

そこから投獄が繰り返される。1930年の塩の行進の後をはじめ、生涯で9回、合わせて9年近くを獄中で過ごした。その時間を書くことに使った。娘インディラに宛てた手紙の形で世界の歴史を語ったのが、日本語でも『父が子に語る世界歴史』として読まれている本である。第二次大戦中の1944年、アフマドナガルの城塞に囚われていた間に書いたのが『インドの発見』で、インドという国の成り立ちを数千年の歴史からたどった。

塩の行進に関わる図版:Marche sel
塩の行進Wikimedia Commons Yann ( talk ) · Public domain

1947年8月15日、インドは独立した(インドの独立)。その直前の深夜、制憲議会でネルーは演説し、真夜中の鐘が鳴るとき、世界が眠るなかで、インドは生と自由に目覚める、と語った。だが独立は、パキスタンとの分離と同時だった(インド・パキスタン分離)。宗教の境で人が移動し、暴動で数十万から100万人以上が死んだとされる。カシミールの帰属をめぐってはすぐに戦争になり(カシミール紛争の始まり)、翌1948年1月にはガンディーが暗殺された(ガンディーの暗殺)。

初代首相として、ネルーは17年間国を率いた。方針は三つあった。一つは議会制民主主義を守ること。貧しく、言葉も宗教も多様な国で、普通選挙を繰り返し行った。二つ目は計画経済による工業化で、五か年計画を立て、製鉄所や巨大なダムを国が造った。ダムを「現代インドの寺院」と呼んでいる。工科大学を各地に設けたのもこの時代である。三つ目が、米ソどちらの陣営にも属さないことだった。

1954年、中国の周恩来と、領土の尊重や内政不干渉などをうたう平和五原則を確認した。翌1955年のバンドン会議では、インドネシアのスカルノやエジプトのナセルらと並んで、アジア・アフリカの新しい独立国が自分たちの声を持つことを訴えた。1961年には、ユーゴスラヴィアのチトーらとともにベオグラードで最初の非同盟諸国首脳会議を開いている。

バンドン会議に関わる図版:Plenary session during the Bandung Conference
バンドン会議Wikimedia Commons Foreign Ministry of the Republic of Indonesia · Public domain

晩年は苦かった。チベットをめぐって中国との関係が冷え、国境の線引きの対立も解けないまま、1962年の中印戦争でインド軍は大敗した。中国との友好を信じてきたネルーにとって、それは政策の土台が崩れる出来事だった。この頃から体が弱り、1964年5月27日、デリーで74歳で亡くなった。

評価は分かれる。宗教ごとに分かれかねなかった国を、世俗の民主国家として保ったことは大きな功績とされる。一方で、国家主導の経済が成長を抑えたこと、カシミール問題を国連に持ち込んで長引かせたこと、中国を見誤ったことが批判される。死後、娘のインディラ・ガンディー、孫のラジーヴがそれぞれ首相になり、どちらも暗殺された(ラジーヴ・ガンディーの暗殺)。誕生日の11月14日は、子どもを愛したことにちなみ、インドで「子どもの日」になっている。

動画(1)

183 戦後のインド 世界史20話プロジェクト第19話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第183講「戦後のインド」
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