パチャクティの拡大
概要
チャンカ族がクスコを攻め、王は逃げ、息子が残って勝った。「世界を変える者」。パチャクティ。父を退けて王になり、クスコをピューマの形に作り直し、チチカカからチャンチャンまで取った。30年で村がタワンティンスーユになった。
場所
-13.53°N -71.97°E · ペルー
関わった人(1)
パチャクテクAD1418年頃–AD1471年頃 · 王本文
15世紀のはじめ、インカはペルー南部のアンデス山中、クスコの盆地に住む一つの勢力にすぎなかった。まわりには同じくらいの力を持つ民族がいくつもあり、互いに争い、ときに手を結んでいた。インカの王はクスコの周辺を治め、近くの村々から貢ぎ物を取ってはいたが、遠くの土地を支配する国ではなかった。
その状態を変えたのが、チャンカ族との戦いだった。インカの伝承によれば、8代目の王ウィラコチャ・インカのころ、西のアンダワイラスのあたりから勢いを増したチャンカ族がクスコへ攻め寄せた。老いた王は後継ぎと決めていた息子ウルコを連れて、町を捨てて近くの砦へ逃げた。町に残ったのは、別の息子クシ・ユパンキと、わずかな武将たちだった。クシ・ユパンキは周りの民族に助けを求めて兵を集め、チャンカの大軍を破った。戦いのさなか、野の石が戦士に姿を変えて加勢したという話が伝わっている。インカの人々はこの石の戦士をプルラウカと呼び、のちに神殿に祀った。決戦の地は、流れた血の多さから「血の野」と呼ばれたという。

勝ったクシ・ユパンキは、逃げた父と兄から王の位を奪い、新しい名を名乗った。それがパチャクティ(パチャクテク)である。パチャは世界や時代、大地を、クティはひっくり返す、変えることを意味する。「世界を変える者」というほどの名で、ケチュア語ではいまも、時代が大きく変わることをこの言葉で表す。
この話には、ことわっておくべきことがある。インカは文字を持たず、歴史はキープ(結縄)と語り部の記憶で伝えられた。私たちが読めるのは、スペイン人が征服のあとに聞き取って書いた年代記である。年代記どうしで話は食い違い、たとえばガルシラソ・デ・ラ・ベガの『インカ皇統記』は、チャンカに勝ったのはウィラコチャ自身だったとしている。1438年という年も、20世紀の研究者が年代記の数字から割り出したもので、確かな記録ではない。パチャクティの事績には、のちの王たちの功績がまとめて寄せられている可能性もある。

それでも、パチャクティの代にインカが近隣の一勢力から大きな国へ変わりはじめたことは、多くの年代記が一致して伝える。彼はまずクスコのまわりの民族を従え、南へ向かってチチカカ湖のほとりのコリャ族やルパカ族を下した。湖の周りの高原は、リャマやアルパカの群れと、寒さに強いジャガイモの産地だった。北へも兵を進め、のちには軍の指揮を息子のトゥパック・インカ・ユパンキに任せた。トゥパック・インカは北のエクアドルへ進み、1470年ごろには海岸の大国チムーを従えた(インカによるチムー併合)。
戦うだけではなかった。インカはまず使者を送り、従えば首長の地位を認め、贈り物を与えた。逆らえば攻めた。征服した民族の神像はクスコに運ばせて預かり、首長の子どもはクスコで育てた。反乱を起こしそうな集団は、まとめて遠い土地に移した。人々は税を物ではなく労働で納め、道を作り、段々畑を耕し、兵として戦った。こうした仕組みの多くは、パチャクティの代に形を取りはじめたとされる。後の代にかけて大きく広がる国の姿は、インカ帝国の拡大やインカ道に詳しい。

パチャクティはクスコの町も作り直した。年代記の一つは、彼が都をピューマの形に設計し、北の丘のサクサイワマンを頭に、二つの川が合わさる場所を尾にしたと伝えている。太陽を祀るコリカンチャの神殿を建て直し、壁を金の板で覆わせたとも伝えられる。継ぎ目に刃物も入らないほど石をぴたりと組み合わせるインカの石積みも、この時代から大がかりに使われるようになった。クスコの北西、ウルバンバ川を見下ろす山の上のマチュピチュの建設は、パチャクティの離宮として建てられたと考えられている。
国の名はタワンティンスーユ、「四つの地方」を意味する。クスコを中心に、北西のチンチャイスユ、北東のアンティスユ、南東のコリャスユ、南西のクンティスユの四つに分けられ、それぞれに道が延びた。

パチャクティは1471年ごろ、王の位をトゥパック・インカに譲り、まもなく亡くなったとされる。死んだ王はミイラにされ、生前の宮殿と土地と従者を持ち続けて、祭りのたびに広場へ運び出された。パチャクティのミイラは征服のあとインカの人々の手で隠されたが、1559年、スペインの役人ポロ・デ・オンデガルドが見つけ出し、リマへ送った。ミイラはリマの病院に置かれたと記録されているが、その後の行方は分からない。
パチャクティの名を最もよく伝えるのは、1551年にスペイン人フアン・デ・ベタンソスが書いた年代記である。ベタンソスはインカ王族の女性を妻とし、その一族から聞き取った話をもとに書いた。そのため、パチャクティを英雄として描く一族の語りが強く出ているとも指摘される。

パチャクティの曾孫アタワルパが、異母兄ワスカルとの内戦に勝ったばかりのところへ、ピサロの一行がやってきた。1532年、アタワルパはカハマルカで捕らえられ、翌年殺された(インカ帝国の滅亡)。伝承の1438年から数えると、パチャクティが始めた帝国は100年にも満たなかったことになる。南北4000キロに広がった国は、その短さの割に、道や石垣や段々畑という形で、いまもアンデスの風景のなかに残っている。