人物

ホー・チ・ミン

Hồ Chí Minh
AD1890年5月19日 – AD1969年9月2日(享年79)
ベトナム重要度 4

概要

独立宣言にアメリカ独立宣言の一節を引いた。フランスと戦い、次いでアメリカと戦う。

関わったできごと(1)

ベトナム民主共和国の独立宣言AD1945年9月2日 · 宣言

本文

1890年5月19日、ベトナム中部のゲアン省の村に生まれた。生まれたときの名はグエン・シン・クンという。父は科挙に受かった儒学者で、一時は地方の役人になったが、フランスの支配下で職を追われた。ベトナムはその頃、フランス領インドシナの一部として植民地にされていた。少年は父のもとで漢文を学び、のちにフランス語の学校にも通った。

ホー・チ・ミンの肖像(1946年)
ホー・チ・ミンの肖像(1946年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1911年、21歳のとき、サイゴンの港からフランスの貨客船に、厨房の手伝いとして乗り込んだ。そこから30年、祖国の土を踏まなかった。船員としてアフリカやアメリカの港を回り、ロンドンではホテルの厨房で働いたとされる。のちに語られた話には伝説めいたものも多く、この時期の足取りには確かでない部分がある。

第一次大戦の頃にはパリに移り、写真の修整などで暮らしを立てながら、フランス在住のベトナム人の運動に加わった。1919年、戦後の講和会議がヴェルサイユで開かれると(ヴェルサイユ条約)、「愛国者グエン」を意味するグエン・アイ・クオックの名で、ベトナム人に言論の自由や政治の権利を認めるよう求める請願書を各国の代表に届けた。アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが民族の自決を唱えていた(十四か条の平和原則)。だが請願は相手にされなかった。民族自決は、ヨーロッパの民族のためのものだった。

ヴェルサイユ条約に関わる図版:Treaty of Versailles, English version
ヴェルサイユ条約Wikimedia Commons David Lloyd George, Woodrow Wilson and Georges Clemenceau · Public domain

翌年、レーニンが植民地の民族解放について書いた論文を読み、涙が出るほど感動した、と後に回想している。1920年、フランス共産党の結成に加わり、1923年にはモスクワへ渡って、各国の共産党を指導する国際組織コミンテルンで活動した。その後は中国の広州や香港、タイなどを転々としながら、ベトナムの若者たちを組織した。1930年、香港でベトナムの共産党を結成している。各地の警察に追われ、香港ではイギリスの官憲に捕らえられた。使った偽名は50を超えるといわれる。

1941年、ついに中国との国境に近いベトナム北部の山中に戻り、洞窟を拠点に、独立のための統一戦線組織ベトミンを作った。当時のベトナムには、フランスの植民地政府が残ったまま日本軍が進駐していた。翌年、支援を求めて中国に入ったところで国民党の当局に捕らえられ、1年余り各地の獄を引き回された。「ホー・チ・ミン」(光をもたらす者、といった意味)の名を使い始めたのは、この頃からである。

ベトミンは日本軍と戦うため、アメリカの情報機関とも協力した。アメリカの工作員がジャングルの拠点に降下し、病に倒れたホーの治療にも当たっている。1945年8月、日本が降伏すると、ベトミンは各地で一斉に蜂起して権力を握った。9月2日、ハノイのバーディン広場に集まった群衆を前に、ホーはベトナム民主共和国の独立を宣言した(ベトナム民主共和国の独立宣言)。その冒頭に引いたのは、アメリカ独立宣言の、すべての人は平等に造られ、生命、自由、幸福の追求を含む権利を与えられている、という一節だった。続けてフランス革命の人権宣言も引き、そのフランスがベトナムの人々からこれらの権利を奪ってきた、と告発した。

ベトナム民主共和国の独立宣言に関わる図版:Co Xa Linh Tu
ベトナム民主共和国の独立宣言Wikimedia Commons Phó Nháy · Public domain

ホーは、アメリカのハリー・トルーマン大統領に何度も手紙を送り、独立への支持を求めた。返事は一度も来なかった。アメリカにとっては、共産主義者の独立よりも、ヨーロッパの同盟国フランスとの関係が重かった。フランスは植民地を取り戻そうと戻ってきた。ホーは交渉を重ねたが決裂し、1946年の末、戦争が始まった。

8年に及ぶ戦いの末、1954年、ベトミン軍はヴォー・グエン・ザップの指揮のもと、ディエンビエンフーでフランス軍を降伏させた(ディエンビエンフーの戦い)。だが続くジュネーヴの会議で、ベトナムは北緯17度線で南北に分けられた。2年後に予定された統一の選挙は、南の政府とアメリカが応じず、行われなかった。

ディエンビエンフーの戦いに関わる図版:Victory in Battle of Dien Bien Phu
ディエンビエンフーの戦いWikimedia Commons Vietnam People's Army · Public domain

北ベトナムの国家主席として、ホーは国づくりを進めた。だが1950年代半ばの土地改革では、地主とみなされた多くの人々が人民裁判で処刑され、のちに政府は誤りを認めて謝罪している。1960年代に入ると、南の政府を支えるベトナム戦争にアメリカが本格的に介入し、北の都市にも爆弾が降った。ホーは、独立と自由ほど尊いものはない、と国民に呼びかけた。晩年は実際の指導を党の幹部に委ね、象徴としての役割が大きくなっていた。

暮らしは質素だった。かつてのフランス総督の官邸には住まず、その庭に建てた木造の高床の小さな家で暮らした。人々は彼を「ホーおじさん」と呼んだ。1969年9月2日、独立宣言からちょうど24年目の日に、ハノイで亡くなった。79歳だった。国の祝日と重なるのを避けるため、死去の日は当初、翌日と発表された。

フランス時代のグエン・アイ・クオック(ホー・チ・ミン)
フランス時代のグエン・アイ・クオック(ホー・チ・ミン)Wikimedia Commons Agence de presse Meurisse · Public domain

遺言で、遺体は火葬し、遺灰を北部・中部・南部の三つの丘に分けて埋めてほしいと書いていた。だが党はその願いに従わず、遺体に防腐処理を施し、レーニンにならって巨大な廟に安置した。6年後の1975年、南の首都サイゴンが陥落し、ベトナムは統一された。サイゴンは、彼の名をとってホーチミン市と改められた。

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