ニコライ1世
概要
アレクサンドル1世の弟。デカブリストの銃声で始まった治世。「正教・専制・国民性」。第三課(秘密警察)、検閲、大学の制限。ポーランドの反乱(1831年)とハンガリー革命(1849年)を潰した。「ヨーロッパの憲兵」。ロシアの鉄道と法典と貨幣を整えた。クリミアで負けている最中に死んだ。「私は息子に、望んだのと違う国を残す」。
所属
ロシア帝国関わったできごと(1)
デカブリストの乱AD1825年12月26日 · 潰した本文
ニコライ1世は1796年7月6日(ロシアの旧暦では6月25日)、皇帝パーヴェル1世の三男として生まれた。生まれて5か月後に祖母のエカチェリーナ2世が死に、4歳のときには父が貴族たちのクーデターで殺された。上に兄が二人いたため、皇帝になるとは考えられておらず、受けた教育は軍事、とりわけ工兵術に偏っていた。彼は生涯、自分は軍人だと言い、規律と秩序を何より愛した。1817年、プロイセンの王女と結婚し、夫婦仲は良かった。
1825年12月、子のないまま兄の皇帝アレクサンドル1世が急死した。次兄のコンスタンチンはひそかに帝位を辞退していたが、それが公にされていなかったため、混乱が起きた。即位の宣誓の日、自由主義の思想を抱く青年将校たちが、憲法を求めて首都の広場に兵を集めて反乱を起こした(デカブリストの乱)。ニコライは大砲を撃ち込んで反乱を鎮め、首謀者たちを自ら取り調べ、5人を絞首刑に、100人以上をシベリアへ送った。29歳の皇帝の治世は、こうして銃声とともに始まった。

30年にわたる治世の合言葉は、「正教・専制・国民性」だった。1833年に教育大臣ウヴァーロフが掲げたもので、ロシア正教の信仰、皇帝の絶対の権力、ロシアの民族の伝統を国の柱とする考えである。皇帝直属の官房第三部が秘密警察として国じゅうを見張り、青い制服の憲兵が人々の言動に目を光らせた。検閲は厳しく、大学の学生の数は制限され、1848年に1848年革命がヨーロッパを揺るがすと、哲学の講義まで疑われて大学から消えた。
外に対しても、ニコライは革命の火を消す役を買って出た。1830年、ロシアの支配下にあったポーランドで蜂起が起きると、翌年これを鎮圧し、ポーランドの憲法を廃止した。1849年には、オーストリアからの独立を目指すハンガリーの革命を潰すため、大軍を送り込んでオーストリアを助けた。ニコライは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた。

一方で、ニコライの治世は国の仕組みを整えた時代でもあった。スペランスキーの指揮でロシアの法令がまとめられ、初めて体系的な法典ができた。財務大臣カンクリンは銀を土台にした通貨の改革を行い、国有地の農民の暮らしを改める改革も進められた。1837年には首都とツァールスコエ・セローの間にロシア最初の鉄道が開通し、1851年にはペテルブルクとモスクワを結ぶ幹線が完成した。皇帝が地図の上に定規で線を引き、鉛筆が指に当たって曲がったところだけ線路が曲がった、という伝説がある。
最大の問題は農奴制だった。ニコライは農奴制が悪であることを認めながら、いまそれに手を付けるのはもっと悪いと述べ、秘密の委員会をいくつも作って検討させたが、根本的な改革には踏み出さなかった。

文学の世界との関わりも深い。ニコライは流刑中の詩人プーシキンを呼び戻し、これからは自分が君の検閲官になろう、と言った。特別な恩恵のようでいて、実際は皇帝が直接見張るということだった。ゴーゴリの喜劇『検察官』は役人の腐敗を笑う芝居だったが、皇帝は初演を見て笑い、上演を許したと伝えられる。一方、1849年、若いフョードル・ドストエフスキーは社会主義の読書会に加わったとして死刑を宣告され、銃殺の寸前に皇帝の恩赦が読み上げられて、シベリアへ送られた。この体験は、のちの彼の小説に深い影を落とした。
1853年、聖地エルサレムの管理権などをめぐってオスマン帝国と戦争が始まると、イギリスとフランスがオスマン側について参戦した(クリミア戦争)。1849年に助けたはずのオーストリアは、ロシアを助けなかった。英仏の連合軍はクリミア半島のセヴァストポリ要塞を囲み、近代化に遅れたロシアの軍隊の弱さがあらわになった。この戦争で看護に活躍したのが、イギリスのフローレンス・ナイチンゲールである。

セヴァストポリが囲まれているさなかの1855年3月2日(旧暦2月18日)、ニコライは寒さの中で軽装のまま閲兵に出たことがもとで肺炎を起こし、58歳で亡くなった。敗戦の屈辱に耐えかねて自ら命を絶ったのだという噂も流れた。死の床で、息子に、望んだのとは違う秩序のまま国を渡すことになった、と語ったと伝えられる。後を継いだアレクサンドル2世は、敗戦を機に改革へ踏み出し、1861年、農奴解放令を出した。父が手を付けられなかった仕事だった。