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Person / 人

ニコライ1世

Nicholas I
AD1796年7月6日 – AD1855年3月2日(享年58)
ロシア帝国重要度 4

概要

アレクサンドル1世の弟。デカブリストの銃声で始まった治世。「正教・専制・国民性」。第三課(秘密警察)、検閲、大学の制限。ポーランドの反乱(1831年)とハンガリー革命(1849年)を潰した。「ヨーロッパの憲兵」。ロシアの鉄道と法典と貨幣を整えた。クリミアで負けている最中に死んだ。「私は息子に、望んだのと違う国を残す」。

所属

ロシア帝国

関わったできごと(1)

デカブリストの乱AD1825年12月26日 · 潰した

本文

1796年7月6日(旧暦6月25日)、ツァールスコエ・セロー。パーヴェル1世の3男。生まれた5か月後に祖母エカチェリーナ2世が死んだ。4歳で父が暗殺された(1801年、貴族のクーデター。兄アレクサンドルは知っていた)。皇帝になる予定はなく、教育は軍事(工兵)に偏った。「私は軍人だ。人生の終わりまで軍人だ」。

1817年、プロイセン王女シャルロッテ(アレクサンドラ・フョードロヴナ)と結婚。仲がよかった。1825年12月、兄が急死し、次兄コンスタンチンが辞退して、29歳で皇帝。デカブリスト。自分で首謀者を訊問した。「私は、あの日の記憶と共に統治する」。

治世30年。「正教・専制・国民性」(教育相ウヴァーロフ、1833年)。皇帝官房第三部(秘密警察。ベンケンドルフ。青い制服の憲兵)。検閲(1826年の「鋳鉄の規則」)。大学の学生数を制限し、哲学の講座を閉じた(1850年)。ポーランドの11月蜂起(1830〜31年)を潰して、憲法を廃した。1849年、ハンガリー革命に20万を送ってオーストリアを助けた。「ヨーロッパの憲兵」。

同時に、整えた。スペランスキーの法典編纂(1830年の全法令集45巻、1832年の現行法令集15巻。ロシア初の体系的な法典)。カンクリンの通貨改革(1839〜43年、銀本位)。国有地農民の改革(キセリョフ、1837〜41年)。最初の鉄道(1837年、ペテルブルク〜ツァールスコエ・セロー。1851年、モスクワまで。伝説では、皇帝が地図に定規で直線を引いて、鉛筆が指をなぞった所だけ曲がった)。技術学校、工科大学。農奴制について、9つの秘密委員会を作って、何も決められなかった。「農奴制は明らかに悪だが、今それに触れるのは、もっと悪い」。

文化。プーシキン(1826年、流刑から呼び戻して、「私が君の検閲官になろう」と言った。それは監視だった)。レールモントフ(コーカサスへ)。ドストエフスキー(1849年、ペトラシェフスキー事件。死刑の判決、銃殺の直前に恩赦の読み上げ、シベリアへ4年)。ゴーゴリ『検察官』は皇帝が笑って上演を許した。

1853年、聖地の管理権からクリミア戦争。イギリスとフランスがオスマンの側で参戦し、オーストリアは中立を守った(1849年に助けたのに)。「私は、私の同盟者を、二人だけ持っている。ロシアの陸軍と海軍だ」。セヴァストポリが囲まれている最中、1855年3月2日(旧暦2月18日)、肺炎(軽装で閲兵に出た)。自殺だという噂が流れた。58歳。

死ぬ前、息子アレクサンドルに言った、と伝える。「私は、私が望んだのとは違う秩序を、お前に残す。多くの心配と苦労を残す」。

3年後、その息子が農奴を解放した。