チューニョと倉
概要
アンデスの高地では、昼は日が照り、夜は凍る。人々はジャガイモを地面に広げて夜の寒さで凍らせ、昼に足で踏んで水を絞り出し、また日に干した。こうしてできたチューニョは、軽く、何年も腐らない。インカの国は、山の斜面に石の倉を何百、何千と並べ、チューニョや干し肉やトウモロコシを蓄えた。倉は風通しのよい高みに建てられ、中は涼しく乾いている。蓄えは、道を行く兵と役人を養い、不作の年には民に配られた。文字を持たない国が、結び目の紐で数を記し、食べ物を貯めて、広い領土を治めていた。
場所
-13.53°N -71.97°E · ペルー
本文
南アメリカのアンデスの高地は、人が暮らす場所としては厳しい。標高は3500メートルから4000メートルを超え、空気は薄く、木はほとんど育たない。昼は強い日差しが照りつけるが、夜になると気温は氷点下に下がる。一年のうち半分は雨が多く、残りの半分は乾ききる。トウモロコシが育つのは、もっと低い谷間までだった。こうした土地で人々の暮らしを支えてきたのが、ジャガイモである。ティティカカ湖の周辺で数千年前に栽培が始まったと考えられ、アンデスでは数千もの品種が育てられてきた。寒さに強く、やせた土地でも実る品種が選び抜かれた。
だが、ジャガイモには弱点がある。水気が多く、そのままでは数か月で芽を出したり腐ったりしてしまう。寒さに強い品種の中には、苦みのある毒の成分を多く含み、そのままでは食べられないものもあった。アンデスの人々は、この弱点を、高地の厳しい気候そのものを使って乗り越えた。

収穫を終えた乾季の初め、夜ごとに霜が降りる頃、人々は小さなジャガイモを地面に広げて並べる。夜の寒さでジャガイモは芯まで凍り、昼の日差しで解ける。それを何日か繰り返したあと、人々は素足でジャガイモを踏みつけ、中の水分と皮を絞り出す。踏まれたジャガイモをさらに数日、夜の霜と昼の日差しにさらし、乾かす。こうしてできるのが、チューニョである。黒く縮んだ、小石のように軽い塊で、水分が抜けたぶん、運ぶのに楽で、何年も腐らない。凍らせて解かし、水を絞ることで、苦みの成分も抜ける。ジャガイモを冷たい川の水に何週間も浸けてから乾かす、白いチューニョを作る方法もある。
夜の凍結と昼の乾燥で水分を抜くこの方法は、20世紀の工業で生まれた、凍らせてから水分を飛ばす乾燥の技術と原理がよく似ている。アンデスの人々は、何千年も前から、空と土を工場にして、それを行っていた。食べるときは、水に浸けて戻し、煮込み料理に入れる。同じように、リャマやアルパカの肉を薄く切って塩をし、寒さと日差しで干し上げた干し肉も作られた。ケチュア語でチャルキと呼ばれるこの干し肉は、英語で干し肉を意味する言葉の語源になったとされる。

15世紀、クスコを都とするインカの国は、急速に勢力を広げ、アンデスの南北数千キロにわたる大帝国を築いた(インカ帝国の拡大)。この広い国を一つにまとめ上げた仕組みの柱の一つが、倉だった。インカの人々は、国の各地の山の斜面に、石や日干しれんがの倉を何十、何百と並べて建てた。倉はケチュア語でコルカと呼ばれる。中部ペルーのある行政の中心地の遺跡では、およそ500の倉が、町を見下ろす丘の斜面に列を作って並んでいる。いまのボリビアのコチャバンバの谷には、2000を超える倉が並んでいたことが分かっている。帝国全体では、数万に及んだと推定されている。
倉は、よく考えて建てられていた。風がよく通る斜面の高みに置かれ、冷たい風と高地の乾いた空気で、中は涼しく乾いた状態に保たれた。床の下に石を敷き詰めたり、溝を通したりして、湿気を逃がす工夫もされていた。中には、チューニョや干し肉、トウモロコシやキヌアといった穀物、さらには布や武器、道具まで蓄えられた。
インカには文字が無かった。代わりに、色を染めた紐にいくつもの結び目を作り、その位置と形で数を記録するキープがあった(キープ)。キープを扱う専門の役人が、どの倉に何がどれだけ入っているか、どれだけ運び込まれ、どれだけ運び出されたかを、紐の結び目で記録し、都へ報告した。
人々は、税として、国のために働く義務を負っていた。畑を耕し、道を作り、布を織り、兵士として戦う。その間の食べ物は、国の倉から支給された。帝国の各地を結ぶ道(インカ道)の沿道には、一定の間隔で宿駅が置かれ、そこにも倉が付属していた。道を行く兵士や役人、伝令の走者は、倉の蓄えで養われた。そして不作の年や災害のときには、倉が開かれ、食べ物が民に配られたと伝えられる。倉は、国の力を支える蓄えであると同時に、民にとっては飢えへの備えでもあった。
1532年、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人の一団がインカの地に入った(インカ帝国の滅亡)。スペイン人の記録者たちは、各地の倉が食べ物や布で満ちていたことに驚きを込めて書き残している。征服の戦いの間、スペインの兵士たちは、インカの倉の蓄えを食べて戦い続けた。皮肉なことに、インカの国の蓄えが、インカを滅ぼした者たちを養ったのである。征服のあと、管理する者を失った倉は、しだいに空になり、崩れていった。
チューニョは、その後も生き延びた。スペイン人が開いたポトシの銀山では、過酷な労働に駆り出された先住民の鉱夫たちの主な食べ物になり、大量に取引された。一方、ジャガイモそのものはヨーロッパに渡り、長い時間をかけて広まって(じゃがいものヨーロッパ普及)、多くの人々の飢えを救い、ときには一つの品種に頼りすぎたことで大飢饉の原因にもなった(アイルランドのジャガイモ飢饉)。
チューニョは、いまもアンデスの高地で、同じやり方で作られている。乾季の夜には霜の降りた畑にジャガイモが並べられ、昼には人々がそれを踏む。文字を持たなかった国が、広い土地を治めることができたのは、道と、倉と、紐があったからである。食べ物を長く保たせ、数え、運ぶ。それが、インカの国の骨組みだった。