できごと

スターリンの死

Death of Stalin
AD1953年3月5日
重要度 5
スターリンの死に関わる図版:Stalin's funeral procession entering Manezhnaya Square from Okhotny Ryad
Stalin's funeral procession entering Manezhnaya Square from Okhotny Ryad Wikimedia Commons U.S. Army Major Martin Manhoff · Public domain

概要

クンツェヴォの別荘で倒れて、側近は12時間、医者を呼ぶのを恐れた。「医師団陰謀事件」の最中で、医者は逮捕されていた。4日。葬儀の群衆で数百人が圧死した。ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ。3月中に収容所から100万人が出た。

場所

モスクワ
55.76°N 37.62°E · ロシア

関わった人(1)

ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · 死んだ

本文

1953年3月5日の夜、モスクワ郊外クンツェヴォの別荘で、ヨシフ・スターリンが死んだ。74歳だった。30年近くソ連を支配し、第二次世界大戦に勝ち、何百万もの人を収容所と処刑場へ送った独裁者の最期は、側近たちが医者を呼ぶのをためらう中で迎えられた。その死は、ソ連と東側の世界を大きく揺り動かすことになる。

死の直前、ソ連には不穏な空気が満ちていた。1953年1月13日、共産党の機関紙『プラウダ』は、クレムリンに仕える医師たちが、指導者たちを治療と称して殺そうとしていた陰謀が発覚した、と報じた。数年前に死んだ幹部ジダーノフも彼らに殺されたのだという。逮捕された医師の多くはユダヤ人で、新聞は彼らを「白衣の殺人者」と呼んだ。ユダヤ人全体がシベリアへ移されるという噂さえ流れた。1930年代の大粛清のような、新たな大粛清が始まるのではないかと、側近たちも怯えていた。スターリンの主治医も獄中にいた。

大粛清に関わる図版:Vinnycia16
大粛清Wikimedia Commons Ukrainian American Youth Association · Public domain

2月28日の夜、スターリンはクレムリンで映画を見たあと、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニンの4人を別荘に連れて行き、夜更けまで食事と酒をともにした。客が帰ったのは3月1日の明け方だった。のちのフルシチョフの回想や警護員たちの証言によれば、翌日の昼になってもスターリンは部屋から出てこなかった。呼ばれもしないのに部屋に入ることは許されていなかったため、警護員たちは夕方まで待った。夜10時ごろ、届いた郵便を口実に部屋に入った警護員ロズガチョフが、床に倒れているスターリンを見つけた。意識はあったが、言葉は出なかった。

警護員たちは幹部に電話をかけた。やってきたベリヤは、主人は眠っているだけだ、騒ぎ立てるな、と言って引き揚げたという。医者たちが到着したのは翌3月2日の朝で、倒れているのが見つかってから半日ほどが過ぎていた。倒れたのはそれよりさらに前だったと考えられている。診断は脳出血で、右半身が麻痺していた。最高の医師たちが獄中にいる中、呼ばれた医師たちは震えながら診察したとも伝えられる。蛭を使った瀉血なども試みられたが、回復はしなかった。

オホートヌィ・リャド通りを進むスターリンの葬列
オホートヌィ・リャド通りを進むスターリンの葬列Wikimedia Commons U.S. Army Major Martin Manhoff · Public domain

3月5日午後9時50分、スターリンは息を引き取った。枕元にいた娘スヴェトラーナは、のちに書いた回想で、父が最期に突然目を開け、部屋にいる者たちを見回したと述べている。それは狂気とも怒りともつかない恐ろしい目だった。そして左手を上げ、何かを指し示すような、あるいは呪うようなしぐさをして、息絶えたという。

死は翌6日に発表された。遺体は労働組合会館の「円柱の間」に安置され、別れを告げようとする人びとがモスクワ中から押し寄せた。3月9日の葬儀の前後には、狭い通りに殺到した群衆の中で多くの人が押し潰されて死んだ。死者の数は公表されず、数百人とも千人を超えるとも言われる。弔辞を読んだのは、マレンコフ、ベリヤ、モロトフの3人だった。遺体は防腐処理を施され、赤の広場のレーニン廟にレーニンと並べて安置された。

プラウダに掲載されたスターリンの病状に関する初の報道。脳卒中発症の3日後で死の前日にあたる1953年3月4日付のプラウダ63号(12631)。
プラウダに掲載されたスターリンの病状に関する初の報道。脳卒中発症の3日後で死の前日にあたる1953年3月4日付のプラウダ63号(12631)。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

側近たちは医者を呼ぶのを遅らせたのか、あるいはもっと積極的に死を早めたのか。モロトフは晩年の聞き取りで、ベリヤが「私が彼を片付けた」と自分に言ったと語っている。毒を盛られたという説もあるが、確かな証拠は見つかっていない。分かっているのは、スターリンの周りの誰もが、彼を怒らせることを恐れて動けなかったということだ。独裁者は、自分が作った恐怖のために、すぐには助けを得られなかった。

死後の動きは速かった。マレンコフが首相、ベリヤが内相として秘密警察を握り、フルシチョフが党の書記局を率いる集団指導が始まった。3月27日には大赦が発表され、およそ120万人が収容所や監獄から出された(収容所の網)。対象は主に刑期の短い一般の犯罪者で、政治犯の多くは残された。4月4日には、医師団陰謀事件はでっち上げだったと発表され、医師たちは釈放された。

3月1日の脳卒中発症の4日後から没する7時間前に至るスターリンの病状に関する報道。1953年3月5日付のプラウダ64号(12632)。
3月1日の脳卒中発症の4日後から没する7時間前に至るスターリンの病状に関する報道。1953年3月5日付のプラウダ64号(12632)。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

外の世界もすぐに変わり始めた。膠着していた朝鮮戦争の休戦交渉は急に進み、7月に休戦協定が結ばれた(朝鮮戦争の休戦)。6月17日には東ドイツで労働者の蜂起が起き、ソ連の戦車に鎮圧された。最も力を持っていたベリヤは、他の幹部たちに危険視され、6月26日に会議の場で逮捕された。イギリスの手先だったなどの罪を着せられ、12月23日に銃殺された。

権力争いを制したのはニキータ・フルシチョフだった。1956年2月、彼は党大会の秘密の会議で、スターリンの個人崇拝と大量弾圧を告発した(フルシチョフの秘密報告)。それは東欧に衝撃を与え、同じ年のハンガリー動乱につながっていく。1961年、スターリンの遺体はレーニン廟から運び出され、クレムリンの壁のそばに埋め直された。

ハンガリー動乱に関わる図版:Hungarian Revolution of 1956 collage
ハンガリー動乱Wikimedia Commons Главцентроархив · CC0

スターリンは死の直前、医師団事件をきっかけに、モロトフやミコヤンといった古い側近たちまで粛清するつもりだったと考えられている。その計画が実行される前に、彼は倒れた。彼の死によって収容所の門が開き、戦争が終わり、新しい指導者たちの時代が始まった。2017年には、この死をめぐる側近たちの右往左往を描いたイギリスの風刺映画が作られたが、ロシアでは公開直前に上映の許可が取り消された。独裁者の死は、70年近くたっても、笑いの種にすることが許されないほど重いものとして扱われている。

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