マラヤ危機

概要
共産党の武装闘争を、イギリスが50万人の住民を強制移住させて封じ込めた。この方法が、のちにベトナムでアメリカが真似て失敗する。
場所
3.14°N 101.69°E · マレーシア
本文
第二次世界大戦のあいだ、日本軍に占領されたマラヤ(シンガポール陥落)で抵抗を続けたのは、マラヤ共産党が組織したゲリラだった。主力は華人で、イギリスは彼らに武器を落とし、戦後には指導者のチン・ペンに勲章まで与えている。日本が降伏すると、ゲリラは武器の一部を隠したまま解散した。
戦後のマラヤは、イギリスにとって手放せない土地だった。ゴムと錫が、ドルを稼ぐ最大の輸出品だったからだ。朝鮮戦争が始まると、軍需でゴムの値は跳ね上がった。共産党は労働組合を通じてストライキを広げ、取り締まりが強まると、ふたたびジャングルに入った。1948年6月、ペラ州スンガイ・シプットで、ヨーロッパ人の農園主3人が殺された。植民地政府は非常事態を宣言し、やがてマラヤ全土に広げた。

イギリスはこれを最後まで「戦争」と呼ばなかった。戦争にすると、ロンドンの保険会社が農園や鉱山の損害を補償しなくなるためだった、という説明が当時から語られている。共産党の側は、自分たちの軍を「マラヤ民族解放軍」と名乗った。
はじめの数年は、ゲリラが優勢だった。森の縁には、戦中の混乱で町から逃れてきた華人の農民が数十万人、土地の権利も持たずに住んでいた。彼らが、脅されてか、共鳴してか、ゲリラに食料と情報を渡していた。1951年10月には、高等弁務官のヘンリー・ガーニーが待ち伏せにあって殺された。

対策の柱は、ハロルド・ブリッグス中将の名をとった計画だった。森の縁に散らばっていた華人の農民およそ50万人を、鉄条網と照明と見張りのある「新村」に移す。その数は500前後に上った。村の外へ持ち出せる米は量を決められ、缶詰は穴を開けてから売られた。保存できない形にして、森へ運ばせないためになる。ゲリラは食べ物を得られなくなり、村は日々の暮らしごと監視の下に置かれた。住民には身分証が配られ、出入りのたびに体を調べられた。一方で、新村には学校や診療所や水道が少しずつ整えられ、それまで土地の権利を持たなかった華人に、住む場所の権利が与えられた。新村の多くはその後も町として残り、いまもマレーシアに数百が残っている。
1952年に着任したジェラルド・テンプラーは、軍と警察と行政を一人で握った。勝敗は「人々の心と頭」で決まる、という言葉は彼のものとして知られている。投降すれば賞金を払い、投降者に元の仲間の居場所を案内させた。一方で、ゲリラに協力した村には外出禁止と食料の削減を科した。1948年12月のバタン・カリでは、イギリス軍の兵士が村の男24人を殺す事件も起きた。イギリス政府はこれを長く虐殺と認めず、いまも遺族が真相の解明を求めている。
決め手になったのは、独立の約束だった。マレー人、華人、インド人の政党が連合を作り、選挙で勝ったトゥンク・アブドゥル・ラーマンが、1957年8月31日にマラヤ連邦の独立を宣言した。植民地からの解放を掲げて戦う理由が、相手の側で先に果たされてしまった。1955年末のバリンでの和平交渉は、党の合法化をめぐって決裂し、ゲリラは数百人にまで減ってタイ国境の山地へ退いた。1960年7月、非常事態が解除された。
死者は、ゲリラ側が6000人を超え、政府側の兵と警察がおよそ1800人、住民も2000人以上とされる。チン・ペンが最終的に武装闘争をやめる協定に署名したのは、1989年になってからだった。
この経験は「マラヤの成功」として研究された。マラヤで顧問を務めたロバート・トンプソンは、のちに南ベトナムに招かれ、農民を囲いの中に集める戦略村の計画に関わった。だがベトナム戦争では、独立を約束できる側が政府ではなく、敵のほうにいた。新村に移された華人と違い、ベトナムの農民は先祖の墓のある土地から引き離された。同じ方法が、条件を外すと逆に働くことを示した例になる。マラヤから分かれたシンガポールの独立も、この時代の延長にある。