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Event / できごと

ラッフルズのシンガポール

Raffles founds Singapore
AD1819年2月6日
重要度 5

概要

マラッカ海峡の南端の、人口1000人の島。東インド会社のラッフルズがジョホールの王位争いに介入して、条約で商館を置いた。自由港。関税なし。5年で人口1万、中国人、マレー人、インド人、アラブ人。オランダは抗議し、1824年の英蘭条約で線が引かれ、海峡の北がイギリス、南がオランダになった。マレーシアとインドネシアの境。

場所

シンガポール
1.35°N 103.82°E · シンガポール

関わった人(1)

スタンフォード・ラッフルズAD1781年7月6日–AD1826年7月5日 · 建てた

本文

東インド会社はインドと中国の間の航路に港が要った。ペナン(1786年)は北すぎた。マラッカはオランダのもの。ジャワ(ナポレオン戦争の間、イギリスが取っていた)は1816年にオランダに返された。ラッフルズは、ジャワの副総督を辞めさせられて、スマトラのベンクーレンの副総督にいた。

1818年、カルカッタの総督ヘイスティングズに、マラッカ海峡の南端に港を作ることを認めさせた。1819年1月28日、シンガポール島に着いた。人口1000人。マレー人の漁民と海のオラン・ラウト。ジョホール王国の領地で、地元の長(テメンゴン)がいた。ジョホールの王位は、弟がオランダの支持で継いでいて、兄のフセインが追われていた。ラッフルズはフセインを呼んで、王だと認め、年金を払い、2月6日、条約。会社が商館を置く権利。

「自由港」。関税なし。どの国の船でも。ラッフルズは3日いて、ベンクーレンに帰った。ウィリアム・ファーカーが残って、町を作った。1819年末、人口5000。1821年、1万。中国人(福建、潮州、広東)、マレー人、インド人(タミル)、ブギス人、アラブ人、アルメニア人。1823年、ラッフルズが戻って、町の計画を作った。民族ごとの居住区(チャイナタウン、カンポン・グラム、リトル・インディア)、商業地区、政府地区。奴隷の禁止。闘鶏と賭博の禁止。マレー語の学校(ラッフルズ・インスティテューション)。

オランダは抗議した。1824年3月、英蘭条約。海峡に線を引いた。北(マレー半島、シンガポール)はイギリス、南(スマトラ、ジャワ)はオランダ。イギリスはベンクーレンをオランダに、オランダはマラッカをイギリスに。マレーシアとインドネシアの境界は、この線。

1826年、海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)。1867年、直轄植民地。1869年、スエズ運河でヨーロッパと中国の間の航路の要になった。錫とゴム。

ラッフルズは1824年にロンドンに帰り、1826年、45歳で脳腫瘍で死んだ。会社は彼に、ジャワの統治の赤字2万2000ポンドの支払いを求めた。

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