ラッフルズのシンガポール
概要
マラッカ海峡の南端の、人口1000人の島。東インド会社のラッフルズがジョホールの王位争いに介入して、条約で商館を置いた。自由港。関税なし。5年で人口1万、中国人、マレー人、インド人、アラブ人。オランダは抗議し、1824年の英蘭条約で線が引かれ、海峡の北がイギリス、南がオランダになった。マレーシアとインドネシアの境。
場所
1.35°N 103.82°E · シンガポール
関わった人(1)
スタンフォード・ラッフルズAD1781年7月6日–AD1826年7月5日 · 建てた本文
1819年2月6日、マレー半島の南端に浮かぶ小さな島で、イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズと、ジョホールの王を名乗る男とのあいだに条約が結ばれた。会社がこの島に商館を置くことを認める取り決めである。当時の島の人口は千人ほどで、マレー人の漁民と、船で暮らす海の民オラン・ラウト、少数の中国人がいるだけだった。この島シンガポールは、その後わずか数年で東南アジア有数の港町に育ち、今では世界有数の貿易と金融の都市になっている。
島に歴史がなかったわけではない。14世紀には「テマセク」と呼ばれる港があり、マレーの年代記は、ある王子がここで獅子を見て「シンガプーラ(獅子の町)」と名づけたと伝えている。その後、15世紀には対岸のマラッカ王国(マラッカ王国の成立)が海峡の交易を握り、1511年にポルトガルがマラッカを奪う(マラッカの陥落)と、マラッカの王家は南へ逃れてジョホール王国を作った。17世紀以降、海峡の主役はオランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)になり、島は長くさびれた漁村にとどまっていた。

イギリスがこの海域に目を向けたのは、インドと中国を結ぶ航路のためだった。東インド会社は18世紀の後半から、中国から茶を大量に買い付け、その代金をインド産のアヘンなどで支払う貿易を広げていた。インドから中国へ向かう船は必ずマラッカ海峡を通る。途中で水や食料を補給し、風を待ち、嵐を避ける港が必要だった。1786年には海峡の北の入口に近いペナン島を手に入れていたが、ペナンは北に寄りすぎていた。海峡の要のマラッカは、オランダのものだった。
ラッフルズは、14歳で東インド会社のロンドンの事務所に入った叩き上げの人物である。ナポレオン戦争のさなか、オランダがフランスの支配下に入ると、イギリスは1811年にオランダ領のジャワ島を占領し、ラッフルズはその統治を任された。彼はジャワの歴史や文化を熱心に調べ、強制的な労働の仕組みを改めようとした。だが戦争が終わると、ジャワは1816年にオランダへ返され、彼の改革は財政の赤字を責められた。その後、スマトラ島西岸のベンクーレンという小さな拠点の長に回された。オランダが再び海峡を独占しようとするのを見て、ラッフルズは、海峡の南の入口にイギリスの港を作らなければならないと考えた。1818年、彼はインドのカルカッタにいる総督ヘイスティングズを説き伏せ、拠点を探す許しを得た。

1819年1月の末、ラッフルズの船はシンガポール島に着いた。島はジョホール王国の領地で、地元を治めるテメンゴンと呼ばれる長がいた。ところがジョホールの王位は揉めていた。先の王が死んだとき、長男のフセインが遠くにいるあいだに弟が王に立てられ、オランダとその背後の勢力はこの弟を支持していた。ラッフルズは、王位から外されていたフセインをひそかに島へ呼び寄せ、彼こそ正統なジョホールの王だと認めた。そのうえで、フセインとテメンゴンに毎年の手当を払う代わりに、会社が商館を置く権利を得たのである。王位争いのすき間に入り込んだ、強引な手だった。
ラッフルズはこの港を「自由港」とした。どこの国の船でも、関税を払わずに入って商売ができる。周辺の港が重い関税や独占で商人を縛っていたなかで、これは強い磁石になった。ラッフルズ自身は数日いただけでベンクーレンに戻り、町づくりは駐在官として残った部下のファーカーに任された。人は驚くほどの速さで集まった。福建や潮州、広東から来た中国人、周辺の島々のマレー人やブギス人、南インドのタミル人、アラブ人、アルメニア人、ヨーロッパ人。1824年の調査で、人口は1万人を超えていた。
1822年から翌年にかけて、ラッフルズは再び島に滞在し、町の計画を自ら定めた。川の南岸を中国人の町、北東の一角をマレー人やアラブ人の町、別の地区をインド人の町とするなど、住民を出身ごとの区画に分け、商業の地区と政府の地区を定めた。今のシンガポールのチャイナタウンやカンポン・グラムの位置は、この計画にさかのぼる。彼は奴隷の売買を禁じ、賭博や闘鶏を取り締まり、地域の言葉と学問を教える学校の設立も構想した。その学校は今もラッフルズの名を冠した名門校として続いている。もっとも、彼の厳しい命令や、ファーカーとの対立もあり、ファーカーはこの時期に駐在官の職を解かれている。
オランダは、自分たちの勢力圏を侵されたと激しく抗議した。だが、すでに繁栄し始めた港を手放させることはできなかった。1824年3月、イギリスとオランダはロンドンで条約を結び、海峡の勢力圏を線で分けた。マラッカ海峡より北、マレー半島とシンガポールはイギリスの側に、南のスマトラやジャワはオランダの側に置かれた。イギリスはスマトラのベンクーレンをオランダに渡し、オランダはマラッカをイギリスに譲った。同じ年、イギリスはフセインとテメンゴンから島全体の割譲を受けた。この線は、のちに独立したマレーシアとインドネシアの国境の元になった。
1826年、ペナン、マラッカ、シンガポールは「海峡植民地」としてまとめられ、のちにシンガポールがその中心になった。1867年にはインドの統治から離れ、イギリス本国が直接治める植民地になった。1869年にスエズ運河が開通すると(スエズ運河の開通)、ヨーロッパとアジアを結ぶ蒸気船の航路の要としての地位は決定的になった。19世紀の後半には、マレー半島の錫や、のちにはゴムの積み出し港として、さらに大きくなっていった。
ラッフルズは1824年にイギリスへ帰ったが、晩年は恵まれなかった。帰国の途中で乗った船が火事で沈み、彼が集めた膨大な資料や標本が失われた。東インド会社は、ジャワ時代などの経費として多額の返済を彼に求めた。ロンドン動物学会の創設に力を尽くしたあと、1826年、45歳の誕生日の前日に、おそらく脳の病で亡くなった。
シンガポールはその後、1942年のシンガポール陥落で日本軍に占領され、戦後はマレーシアの一部を経て、1965年に独立した(シンガポールの独立)。独立後の政府は、植民地の始まりを否定するのではなく、ラッフルズを港を開いた人物として町の歴史の中に位置づけてきた。ラッフルズの名は今もホテルや学校、通りの名に残り、彼が上陸したとされる川岸には白い像が立っている。2019年の上陸200年の年には、彼以前の700年の歴史にも光を当てようという試みが行われた。