ユナイテッド・フルーツと「バナナ共和国」
概要
一つの会社が、中米数か国の鉄道と港と土地を握った。1954年、農地改革を進めたグアテマラ政権が、この会社の働きかけを受けたアメリカの介入で倒される。
場所
14.63°N -90.51°E · グアテマラ
本文
19世紀の後半、アメリカ合衆国でバナナが売れはじめた。南国の高価な果物だったものが、蒸気船と鉄道で安く大量に運べるようになったからだ。1899年、ボストンの果物商社と、中米で鉄道とバナナ農園を手がけていたマイナー・キースの事業が合併し、ユナイテッド・フルーツ社ができた。
キースはそれより前、コスタリカで首都と大西洋岸を結ぶ鉄道を敷いていた。熱帯の低地での工事で、黄熱やマラリアのために多くの労働者が死んだとされる。政府が資金に困ると、キースは自分で借金をして工事を続け、見返りに広大な土地と鉄道の経営権を得た。線路の脇に植えたバナナが、のちの帝国の始まりになった。

同じ型が、中米の各地でくり返された。鉄道を敷く見返りに、沿線の土地を得る。港を整える見返りに、税を免れる。会社はグアテマラ、ホンジュラス、コスタリカ、パナマ、コロンビアなどで最大の地主になり、最大の雇い主になった。鉄道と港と電信と、白く塗った冷蔵船の船団を握り、それなしでは国の輸出が成り立たなくなった。現地では、あらゆるところに足を伸ばす「エル・プルポ(タコ)」と呼ばれた。
政府が逆らえば、政府が替わることもあった。1911年、のちに会社の大株主になるサミュエル・ゼムレーは、アメリカ人の傭兵を雇ってホンジュラスの政権を倒させ、有利な条件を手に入れた。「バナナ共和国」という言葉は、アメリカの作家オー・ヘンリーが1904年の小説で、ホンジュラスに似た架空の国を指して使ったのが最初とされる。外国の会社と一握りの支配層が国を動かすこの構図を指す言葉として、のちに広まった。

1928年、コロンビアのカリブ海側の町シエナガで、会社のバナナ農園の労働者がストライキを起こした。軍が広場に集まった人びとに発砲した。死者の数は、数十人とするものから千人を超えるとするものまであり、今も分かっていない。ガブリエル・ガルシア=マルケスはこの事件の近くで生まれ育ち、『百年の孤独』の虐殺の場面の下敷きにした。
1944年、グアテマラで長い独裁が倒れ、選挙で選ばれた政権が続いた。1951年に大統領になったハコボ・アルベンスは、翌年、農地改革の法律を定めた。大農園の土地のうち、耕されていない部分を国が買い上げ、土地を持たない農民に分ける。補償の額は、地主が税のために申告していた評価額をもとにした。
ユナイテッド・フルーツは、グアテマラの国土のかなりの部分を持ち、その多くを使わずに寝かせていた。収用の対象になった土地は16万ヘクタールを超えた。会社は税を減らすために評価額を低く申告しており、政府の示した補償は、会社の主張する価値よりはるかに少なかった。
会社はワシントンに働きかけた。広報の専門家を雇い、アルベンス政権は共産主義の手先だと新聞や議会に訴えた。物語「冷戦」が始まったばかりのアメリカ政府にとって、それは聞き流せない話だった。国務長官ジョン・フォスター・ダレスと、その弟で中央情報局(CIA)の長官のアレン・ダレスは、会社と古いつながりがあった。1954年6月、中央情報局が用意した亡命者の部隊が隣国ホンジュラスから侵入し、宣伝放送と爆撃機で揺さぶりをかけた。軍が政権を見放し、アルベンスは辞任して国外へ去った。
その後のグアテマラでは、軍事政権が続いた。1960年からは36年におよぶ内戦になり、死者と行方不明者はおよそ20万人にのぼった。その多くは、先住民の村の人びとだった。1954年の政変を首都で目にした若いアルゼンチン人の医師がいた。のちのチェ・ゲバラで、この経験はアメリカへの見方を決定づけたとされる(キューバ革命)。

会社のほうも、安泰ではなかった。グアテマラの政変と同じ1954年、アメリカ政府自身が独占を問題にして訴訟を起こし、会社は1958年の和解で事業の一部を手放すことになった。1975年には会長がニューヨークのビルから身を投げ、その直後の調べで、ホンジュラスの政府高官への贈賄が明るみに出ている。会社はその後、名を変え、合併をくり返し、いまはチキータの名で知られている。一つの果物を安く食卓に届ける仕組みが、遠い国の土地と政治をどう作り変えたのか。ユナイテッド・フルーツの歴史は、その代表例として語られ続けている。