ウラービー運動

概要
スエズ運河の建設と浪費で、エジプトは破産し、英仏が財政を管理した。農民出身の陸軍大佐ウラービーが「エジプト人のエジプトを」と立ち、憲法と議会を求めた。アレクサンドリアがイギリス艦隊に砲撃され、テル・エル・ケビールで夜襲に敗れた。ウラービーはセイロンへ流された。イギリスの「一時的な」占領は74年続いた。
場所
30.55°N 31.79°E · エジプト
関わった人(1)
アフマド・ウラービーAD1841年3月31日–AD1911年9月21日 · 率いた本文
19世紀のはじめからエジプトを治めたムハンマド・アリーの一族は、名目上はオスマン帝国の臣下でありながら、事実上の独立した王朝として国の近代化を進めた。綿花を育ててヨーロッパへ売り、軍を作り、鉄道を敷いた。1863年に副王となったイスマーイールは、エジプトをヨーロッパの一部にすると言って、スエズ運河の開通を完成させ、カイロにオペラハウスと宮殿を建てた。その費用は、ヨーロッパの銀行から高い利子で借りた金だった。
借金はふくらみ続けた。1875年、イスマーイールは運河会社の株をイギリスに売り渡したが、翌年には支払いができなくなった。イギリスとフランスはエジプトの財政を管理するようになり、国の歳入の半分を超える額が借金の返済に回された。1879年、イスマーイールは列強の圧力で退位させられ、息子のタウフィークが副王となった。

軍の中にも不満がたまっていた。将校の上層は、オスマン帝国の支配層の流れを汲むトルコ系やチェルケス系の人々で占められ、アラビア語を話すエジプトの農民出身の将校は、大佐より上にはまず上がれなかった。財政を切り詰めるときに、真っ先に職を失ったのも彼らだった。
アフマド・ウラービーは1841年、ナイル・デルタの村の長の家に生まれた。カイロのアズハルで学び、軍に入ると、エジプト人を登用した副王サイードの時代に、若くして中佐まで昇った。1881年2月、彼ともう二人のエジプト人の大佐は、チェルケス系の陸軍大臣の解任を求めて捕らえられたが、部下の兵たちが兵舎を出て彼らを奪い返した。

同じ年の9月9日、ウラービーは兵を率いてカイロのアービディーン宮殿の前に並び、内閣の交代と議会の開設を求めた。副王が、自分は父祖からこの国を受け継いだ主だと言うと、ウラービーは、神は我々を自由な者として造られた、我々はもはや受け継がれる物でも所有される物でもない、と答えたと伝えられる。副王は要求を呑んだ。議会が開かれ、憲法の案が作られ、翌年ウラービーは陸軍大臣となった。「エジプト人のためのエジプト」が、運動の合言葉になった。
イギリスとフランスは、借金の取り立ての仕組みが崩れることと、インドへの道である運河を失うことを恐れた。1882年5月、両国の艦隊がアレクサンドリアの沖に現れた。6月11日、市内で暴動が起き、50人ほどのヨーロッパ人と、それより多くのエジプト人が死んだ。7月11日、イギリスの艦隊は、要塞の強化をやめないことを理由に、アレクサンドリアを10時間あまり砲撃した。フランスは議会が出兵を認めず、加わらなかった。
イギリスはウルズリー将軍の率いる軍を、運河を通ってイスマイリアに上陸させた。9月13日、テル・エル・ケビールに陣を構えたウラービーの軍に対し、イギリス軍は月の無い夜に砂漠を音もなく進み、夜明け前に塹壕へ突撃した。戦いは1時間もかからずに終わった。エジプト側の死者は2000人ほど、イギリス側は57人だったとされる。翌日、イギリスの騎兵はカイロに入った。
ウラービーは捕らえられて反逆の罪で死刑を言い渡されたが、減刑されてセイロンへ流された。19年後の1901年に帰国を許され、1911年にカイロで世を去った。
イギリスは、占領は一時的なものだと繰り返し言い続けた。だが1922年にエジプトの独立を認めた後も運河の周りに軍を残し、撤退を約束したのは1954年の協定で、最後の兵が去ったのは1956年だった。74年に及ぶ「一時的な」占領である。その年、ガマール・アブドゥル=ナセルは運河の国有化を宣言し、スエズ危機が起きる。1952年の革命で王政を倒したナセルたちは、ウラービーを、外国の支配と特権の層に立ち向かった最初のエジプト人の革命家として位置づけた。カイロにはいま、彼の名を冠した広場と通りがある。