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Event / できごと

ウラービー運動

Urabi revolt
AD1882年9月13日
重要度 4

概要

スエズ運河の建設と浪費で、エジプトは破産し、英仏が財政を管理した。農民出身の陸軍大佐ウラービーが「エジプト人のエジプトを」と立ち、憲法と議会を求めた。アレクサンドリアがイギリス艦隊に砲撃され、テル・エル・ケビールで夜襲に敗れた。ウラービーはセイロンへ流された。イギリスの「一時的な」占領は74年続いた。

場所

テル・エル・ケビール
30.55°N 31.79°E · エジプト

関わった人(1)

アフマド・ウラービーAD1841年3月31日–AD1911年9月21日 · 率いた

本文

1805年からエジプトを治めたムハンマド・アリー家は、綿と、近代化と、そして借金でできていた。スエズ運河(1869年開通)、鉄道、宮殿、オペラハウス。ヘディーヴ(副王)イスマーイールは、ヨーロッパの銀行から高利で借り続けた。1876年、破産。1875年に運河の株をイギリスに売り、1878年から英仏の「二重管理」。歳入の6割以上が債務の返済に消えた。

軍。将校の上層は、トルコ・チェルケス系(オスマンの支配層の子孫)。エジプト人(アラビア語を話す農民出身、「フェッラーヒーン」)は、大佐より上に行けなかった。財政の縮小で、真っ先に切られたのもエジプト人の将校だった。

アフマド・ウラービー。ナイル・デルタの村長の子。アズハルで学び、軍に入って、25歳で大佐(当時としては例外的な速さ。イスマーイールの初期の改革のおかげ)。

1881年2月、エジプト人将校3人が陸相の解任を求めて逮捕され、部下が兵舎から出て、彼らを奪還した。9月9日、ウラービーは4000の兵をアービディーン宮殿の前に並べた。ヘディーヴ・タウフィークが「私は父から受け継いだこの国の主だ」と言い、ウラービーが答えた。「我々は神が創造し、自由に生まれた。今後、相続も所有もされない」。

議会が開かれ、憲法草案が作られ、ウラービーは陸相になった。「エジプト人のエジプトを(ミスル・リル・ミスリーイーン)」。

英仏は、債務の管理が崩れることと、運河を恐れた。1882年5月、艦隊がアレクサンドリア沖に来た。6月11日、アレクサンドリアで暴動(外国人50人ほどとエジプト人多数が死んだ)。7月11日、イギリス艦隊が市を10時間半、砲撃した。フランスは参加しなかった(議会が拒んだ)。

イギリス軍2万5000がスエズ運河から上陸した。9月13日未明、テル・エル・ケビール。ウラービーの塹壕に、月のない夜、無音で近づいて、夜明けに突撃した。40分。エジプト軍の死者2000、イギリス側57。

ウラービーは捕らえられ、反逆罪で死刑判決、減刑されてセイロンへ流された。19年。1901年に帰国を許された。1911年、カイロで死んだ。

イギリスの占領は「一時的」だと繰り返し宣言された(66回、と数えた人がいる)。1922年に「独立」を認めた後も軍は残り、1954年の協定で撤退が決まり、1956年に終わった。74年。

ナセルは1952年の革命の後、ウラービーを「最初の革命」として位置づけた。彼の名前は、カイロの通りにある。

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