アッシュルナツィルパル2世のカルフ遷都
概要
新しい都の落成に7万人を招いて10日宴を開いた、と碑文が人数と献立まで記す。宮殿の壁の浮き彫りに、反乱者の皮を剥ぐ場面を刻んだ。恐怖も統治の道具だった。
場所
36.10°N 43.33°E · イラク
本文
紀元前9世紀の初め、アッシリアは200年近い停滞から抜け出し、再び外へ向かいはじめていた(新アッシリア帝国)。紀元前883年に王位に就いたアッシュルナツィルパル2世は、毎年のように軍を率いて北の山地や西のユーフラテス川の流域へ遠征し、地中海の岸にまで達した。フェニキアの町々は、彼に貢ぎ物を送った。
王はやがて、都を移すことにした。古い都アッシュルは、神アッシュルの神殿がある聖なる町だったが、国の南の端に寄りすぎていた。選ばれたのは、ティグリス川を北へさかのぼった、大ザブ川との合流点に近いカルフである。数百年前の王が築いた町があったが、すでに廃れていた。王はそこに、まったく新しい都を作り上げた。旧約聖書の創世記にカラフの名で出てくる町で、いまはニムルドと呼ばれる。

城壁は長さ7キロを超え、囲まれた広さは360ヘクタールに及んだ。城塞の上には、北西宮殿と呼ばれる大宮殿が建てられ、神々の神殿と塔が並んだ。大ザブ川から運河を引き、城壁の外に広い果樹園を作った。王は碑文で、遠征先の土地から持ち帰った木や草を植えたと誇っている。杉や糸杉、ナツメヤシ、さまざまな果樹。ライオンや象を集めた庭もあった。
紀元前879年、宮殿の完成を祝う宴が開かれた。1951年に宮殿跡から見つかった石碑が、その様子を数字で伝えている。招かれたのは、国中から集めた男女4万7074人、諸国からの使節5000人、カルフの住民1万6000人、宮殿の役人1500人。合わせて6万9574人。宴は10日続いた。用意されたのは、肥えた牛1000頭、子牛1000頭、羊1万4000頭、鳩1万羽、パン1万、ビール1万壺、ぶどう酒1万皮袋。王は碑文をこう結ぶ。私は彼らに湯浴みをさせ、油を塗り、敬意をもって、喜びのうちにそれぞれの国へ帰らせた。
同じ王の碑文には、まったく別の顔も刻まれている。逆らった町を落としたとき、王は反乱の首謀者の皮を剥いで城壁に張りつけ、捕虜の首を積み上げて柱のようにし、若い男女を火に投じた、と自ら書き残している。宮殿の壁を飾る浮き彫りには、ライオン狩りの場面と並んで、敵の町を攻め、首を取る兵士たちの姿が彫られた。宮殿を訪れる使節たちは、それを見ながら王の前へ進んだ。逆らえばどうなるかを見せることも、統治の一部だった。
宮殿の門には、人の頭と鳥の翼と牡牛や獅子の体を持つ巨大な石像が立てられた。ラマッスと呼ばれる守り神で、正面から見ると脚が2本、横から見ると4本に見えるよう、脚が5本彫られている。どの角度から見ても欠けて見えないための工夫である。
アッシュルナツィルパル2世は紀元前859年に死に、息子のシャルマネセル3世が後を継いだ。シャルマネセル3世はカルカルでシリアの連合軍と戦い(カルカルの戦い)、カルフに自分の宮殿と、のちに有名になる黒いオベリスクを建てた。その石には、イスラエルの王イエフが貢ぎ物を差し出す姿が刻まれている(オムリのサマリア建設)。カルフは、紀元前8世紀の終わりにサルゴン2世が新しい都を築くまで、150年あまりアッシリアの都であり続けた。

紀元前612年前後、アッシリアがメディアとバビロンの連合軍に滅ぼされたとき(ニネヴェ陥落)、カルフも焼かれた。土に埋もれた都を掘り出したのは、19世紀半ばのイギリスの旅行家オースティン・ヘンリー・レヤードである。彼はラマッスや浮き彫りを、川と海を越えてロンドンまで運んだ。いま大英博物館に並ぶアッシリアの彫刻の多くは、このとき運ばれたものである。20世紀には考古学者マックス・マローワンが発掘を続け、妻で推理作家のアガサ・クリスティも現場に同行した。1988年からはイラクの考古学者たちが王妃たちの墓を見つけ、黄金の装身具が大量に出た。
2015年、この地を支配していた過激派組織「イスラム国」が、遺跡の宮殿を爆破し、重機で浮き彫りやラマッスを打ち壊す映像を公開した(「イスラム国」の台頭)。翌年には、神殿の塔も崩された。数千年を土の中で生き延びた都は、いま、残った破片を拾い集めて元の姿を記録し直す作業が続けられている。