トゥールーン朝の自立

概要
トルコ人の奴隷兵の息子アフマドがエジプトの総督になり、税をバグダードに送らなくなった。シリアも。フスタートの北に新しい街と、いまも残るモスク。アッバース朝からエジプトが離れた最初。37年で戻され、60年後にファーティマ朝が来た。
場所
30.01°N 31.23°E · エジプト・カイロ
本文
9世紀のアッバース朝は、アッバース革命から100年ほどで、大きな変わり目を迎えていた。カリフたちは、中央アジアから買い入れたトルコ人の奴隷の兵を親衛の軍として頼るようになり、836年には兵とともにバグダードの北の新しい都へ移った(サーマッラーへの遷都)。だが、やがてその兵の将軍たちがカリフを立てたり殺したりするようになり、860年代には数年のうちに何人ものカリフが入れ替わった。地方の豊かな州は、将軍たちに褒美として与えられ、将軍は自分の代理を送って税を取り立てさせた。
アフマド・イブン・トゥールーンは、そうしたトルコ人の兵の子として、835年に生まれた。父トゥールーンは、中央アジアのブハラから、カリフのマームーンへの貢ぎ物として送られた奴隷だったと伝えられる。アフマドはサーマッラーの兵営で育ち、軍人としての訓練に加えて、学問と信仰に打ち込んだ。ビザンツとの国境の町タルススで学んだこともあり、敬虔で教養のある人物として知られた。
868年、エジプトを褒美として与えられたトルコ人の将軍が、自分の代理としてアフマドを送り込んだ。フスタートに着いたアフマドは、まず財政を握るカリフの役人と争ってこれを追い出し、税の取り立てと軍を自分の手に収めた。ちょうどそのころ、イラク南部では黒人の奴隷たちの大反乱(ザンジュの乱)が起き、東ではイランのサッファール朝が勢いを増していた。バグダードの政府には、遠いエジプトに手を回す余裕が無かった。アフマドはトルコ人に加え、アフリカから買った黒人の奴隷の兵、ギリシア人の兵などを集めて、自分だけに従う大きな軍を作り上げた。エジプトの税は、ほとんどバグダードへ送られなくなった。
870年、アフマドはフスタートの北に新しい町を築いた。兵たちに区画ごとに土地を割り当てたことから「区画」を意味するカターイと呼ばれる。町には宮殿や広い競技場が作られ、872年ごろには病院も建てられた。病院では身分を問わず治療が無料で行われ、入るときに服と持ち物を預け、治って出るときに返されたと伝えられる。876年から879年にかけて建てられた大モスクは、育ったサーマッラーの大モスクにならい、焼きれんがと漆喰で作られた。広い中庭を回廊が囲み、壁の上には透かし彫りの飾りが並ぶ。

878年、シリアの総督が死ぬと、アフマドは兵を進めてシリアを手に入れ、ビザンツとの国境の地まで勢力を広げた。カリフのムウタミドは実権を弟のムワッファクに握られており、882年には、カリフをエジプトへ迎えようとする計画も持ち上がったが、途中で阻まれた。ムワッファクはモスクの説教でアフマドを呪わせ、アフマドもまたムワッファクを呪わせた。それでもアフマドは、カリフその人の権威を否定することはなく、エジプトの説教ではカリフの名を唱え続けた。アッバース朝の中にとどまったまま、事実上は自立した王になったのである。884年、アフマドはシリアへの遠征の帰りに病に倒れ、フスタートで死んだ。
跡を継いだ息子のフマーラワイフは、885年、ムワッファクの息子の軍と戦い、886年の和約で、エジプトとシリアを30年にわたって治めることを認めさせた。その戦いの相手がのちにカリフになると、彼は娘を嫁がせ、豪華な嫁入りの品で人々を驚かせた。その額は100万ディナールに及んだと伝えられる。宮殿には黄金で飾った広間を造り、眠れない夜のために水銀を満たした池に革の寝台を浮かべさせたという話まで、後世の歴史家は書き残している。

だが贅沢は財政を傾けた。896年、フマーラワイフはダマスカスで、仕える者たちに殺された。跡を継いだ息子たちは若く、将軍たちの争いで力を失った。905年、アッバース朝の軍がエジプトに攻め込んでトゥールーン家を降し、カターイの町は焼き払われ、壊された。残ったのは大モスクだけだった。エジプトが自立を保ったのは、868年から37年間である。
エジプトはふたたびアッバース朝の総督に治められたが、それも長くは続かなかった。935年には同じようにトルコ人の軍人の家がイフシード朝を開き、969年にはチュニジアから来たファーティマ朝がエジプトを征服して、新しい都カイロを築いた。カイロにはまもなく大モスクと学院が建てられる(アズハル学院の創設)。カリフに仕える軍人が地方の総督になり、やがて王になる。トゥールーン朝は、のちのエジプトで繰り返されるこの形の、最初の例だった。奴隷の兵が自ら国を治めたマムルーク朝の時代は、それから4世紀近く後に来る。

イブン・トゥールーンのモスクは、いまもカイロの旧市街に立っている。後世に大きく作り替えられなかったため、カイロで建てられた当時の姿を最もよく残すモスクとされる。外の階段が塔を巻くように上る、変わった形のミナレットは、1296年にマムルーク朝のスルタンが修復したときのものとみられる。都が北のカイロに移り、まわりの町が衰えたことが、かえってこの建物を残したのだった。