マカートニー使節団

概要
イギリスが通商を求めて送った使節を、乾隆帝は熱河の離宮で会い、「天朝は何も欠いていない」と退けた。傲慢の例として語られてきたが、当時の清はまだ世界最大の経済だった。
場所
40.97°N 117.94°E · 中国・河北省承徳市
本文
18世紀の後半、イギリスは清との取引に不満を募らせていた。西洋の船は広州一港でしか商売を許されず、相手は指定の商人に限られ、役人の取り立てにも苦しめられた。茶の輸入は増え続けるのに、イギリスの品は売れず、銀が流れ出ていく(広州の茶貿易)。政府は、皇帝に直接話をすれば道が開けると考えた。
使節に選ばれたのは、ロシアへの使節やインドのマドラスの知事を務めた外交官ジョージ・マカートニーだった。1792年9月、軍艦ライオン号ほかの船で、学者、画家、技術者、兵士を含む700人近い一行がイギリスを出た。目的は、北京に使節を常駐させること、広州のほかに舟山や寧波や天津での交易を認めさせること、商人が住める小さな島を得ること、そして関税の額をはっきりさせることだった。表向きは、乾隆帝の80歳を過ぎた誕生日を祝うためと伝えた。

贈り物は、イギリスの技術を見せつけるために選ばれた。天体の動きを示す大きな機械仕掛けの模型、望遠鏡、地球儀と天球儀、最新の大砲と銃、ウェッジウッドの陶器、馬車、そして気球。翌年の夏に一行が天津に着くと、清の役人は川を上る船に「英吉利貢使」と書いた旗を立てた。イギリスの国王が貢ぎ物を捧げに来た使い、という意味になる。
いちばんの争いは、皇帝の前での礼だった。清の儀礼では、三度ひざまずき、そのたびに三度頭を地につける三跪九叩頭が求められる。マカートニーは、自国の国王にするのと同じ礼、つまり片膝をついて頭を下げる礼しかしないと言い張った。1793年9月14日、北京の北東、熱河(いまの承徳)の離宮で行われた謁見で、マカートニーは片膝をついたとイギリス側は記録している。清の側の記録は、使節がきちんと礼を尽くしたかのように書いており、実際に何が行われたかには食い違いがある。

謁見の場で、乾隆帝は一行を機嫌よくもてなした。一行の中にいた12歳の少年ジョージ・トーマス・ストーントンが、船旅のあいだに覚えた中国語で皇帝に話しかけ、皇帝は喜んで自分の腰の袋を与えた、と伝わる。だが要求はすべて退けられた。イギリス国王に宛てた勅諭は、天朝はあらゆる物に満ちていて、外国の産物に頼る必要はない、と述べ、要求を一つずつ挙げて却下していた。贈り物の機械も、清の宮廷にはすでに西洋の時計や天文の器具が多くあり、さほど驚かれなかったとされる。
帰り道、一行は大運河を下って広州へ向かい、中国の農村や町の様子を観察して記録した。マカートニーは日記に、清の帝国を古くて調子の狂った一級の軍艦にたとえ、有能な艦長がいるあいだは浮いていられるが、凡庸な者が指揮をとれば、いずれ岸に打ち上げられて砕けるだろう、と書いた。
長く、この使節団は清の傲慢と閉鎖の例として語られた。世界の変化に目を閉ざした老皇帝が、近代の扉を自ら閉めた、という語り方になる。50年後のアヘン戦争を、この勅諭から説明する話も多い。1816年にはアマーストの使節がもう一度送られたが、礼をめぐる争いで皇帝に会うことすらできなかった。少年だったストーントンは、のちに議会でアヘン戦争の開戦を支持する側に立っている。

見方は変わっている。研究者は、当時の清が世界最大の経済であり、イギリスが売れるものは実際にほとんど無かったことを指摘する。勅諭の言葉は傲慢に聞こえるが、事実として大きく外れてはいなかった。乾隆帝はイギリスの意図を警戒し、使節の帰国後、沿岸の守りを固めるよう命じていたとする研究もある。ただ、その警戒が相手の技術や軍備を学ぶ方向には向かわなかった。
『大分岐』は、この使節団を比較の材料として読み直す(物語「『大分岐』で読む歴史」)。1800年の時点で、ヨーロッパと中国のどちらが先を行っていたかは自明ではなかった。差が大きく開いたのはその後のことで、熱河の謁見は、二つの世界がまだほぼ対等に向き合っていた最後の場面の一つになる。