コンゴ王国とポルトガルの接触
概要
対等な国どうしとして始まり、王は洗礼を受けて使節を送った。だが奴隷貿易が国を内側から壊していく。
場所
-6.27°N 14.25°E · アンゴラ・ザイーレ州
本文
15世紀のアフリカ中西部、コンゴ川の下流の南には、コンゴ王国が広がっていた(コンゴ王国)。14世紀ごろに成立したとされ、都ンバンザ・コンゴの王(マニコンゴ)が、州を治める貴族たちを任命し、貢ぎ物と税を集めていた。貨幣には、沖合の島で採れる小さな貝殻が使われた。人口の推計は数十万から数百万まで幅があるが、ヨーロッパの船乗りたちは、整った宮廷と町の大きさに目を見張っている。
1483年、ポルトガルの航海者ディオゴ・カンが、アフリカ西岸を南へ下る途中でコンゴ川の河口にたどり着いた。ポルトガルは同じころ、喜望峰を回ってインドへ向かう道を探していた(喜望峰の回航)。カンは内陸の王のもとへ使いを送り、使いが戻らないうちに、海岸にいたコンゴの人びとを数人連れてリスボンへ帰った。2年後、その人びとはポルトガルの言葉と習わしを身につけ、贈り物を携えて故郷へ送り返された。人質とも賓客ともつかない、この往復が接触の始まりだった。

コンゴの王ンジンガ・ア・ンクウは、ポルトガルとの関係に可能性を見た。1491年、ポルトガルから宣教師と職人を乗せた船団が来ると、王は洗礼を受け、ポルトガル王にならってジョアンの名を名乗った。キリスト教は、新しい知識と技術、遠い国の力と結びつく手段でもあった。ただ、改宗をめぐっては宮廷の中に反発もあり、王自身ものちに古い信仰へ戻ったとも伝えられる。
王の死後、キリスト教を支持する息子ムベンバ・ア・ンジンガが、異母兄弟との王位争いに勝って即位した。これがアフォンソ1世である。後のコンゴの伝承では、戦いのさなかに天に十字架と聖ヤコブが現れて味方を勝利に導いたと語られる。アフォンソは1509年ごろから30年あまり王位にあり、熱心なキリスト教徒として教会を建て、学校を開き、貴族の子弟にポルトガル語の読み書きを学ばせた。ポルトガル王とは「兄弟」と呼び合う手紙を交わし、息子のエンリケをリスボンで学ばせた。エンリケはローマ教皇から司教に任じられ、サハラより南のアフリカの出身者として最初の司教の一人になった。
アフォンソがポルトガルに求めたのは、宣教師と教師、医者、薬、そして船大工や石工などの職人だった。だが、やって来た者の多くが関心を持っていたのは、別の品物だった。人である。大西洋の向こうのブラジルや、赤道直下のサン・トメ島のサトウキビ畑は、働き手を際限なく必要としていた(大西洋奴隷貿易)。コンゴにも以前から戦争捕虜や罪人を奴隷とする慣習はあったが、ポルトガル商人の求める数はそれとは桁が違った。商人たちは王の許しを得ずに地方の首長や貴族と直接取引し、銃や布と引き換えに人を買い集めた。王の家臣の子どもまでがさらわれ、売られていった。

1526年、アフォンソはポルトガル王に宛てて、商人たちが王国の人びとを奪い、国が空になってしまう、と訴える手紙を書いた(アフォンソ1世の手紙)。彼は奴隷貿易そのものを否定したわけではなく、売られる者が正しく奴隷とされた者かを調べる役人を置くことで、取引を王の管理下に戻そうとした。しかし、取引で富を得る貴族や商人の力は大きく、流れを止めることはできなかった。
アフォンソの死後、王国は奴隷貿易と結びついた政治の中で揺れ続けた。16世紀の後半には東からの侵入者に都を追われ、ポルトガルの軍の助けで取り戻す。代わりにポルトガルは南のンドンゴの方面に足場を築き、1575年にはルアンダを建設した(ルアンダの建設と奴隷の積出)。ここは、大西洋で最も多くの奴隷が積み出された港の一つになる。1665年、コンゴ軍はポルトガルとの戦いに敗れて王が討たれ、王国は長い内戦の時代に入った。

対等な王国どうしの交わりとして始まり、王が自ら洗礼を受けて新しい知識を求めた関係は、100年ほどのうちに、一方が他方から人を運び出す関係へと変わった。アフォンソの手紙は、アフリカの側から奴隷貿易を告発した最も早い記録の一つとして、いまも読まれている。