ポニー・エクスプレス
概要
ミズーリ州セントジョセフからカリフォルニアのサクラメントまで3100キロを、10日で運ぶ。15キロごとに中継所を置き、騎手は馬を替えながら100キロ前後を走り、次の騎手に鞍袋を渡す。騎手は体重が軽い若者が選ばれ、「孤児優先」と募集広告にあったと伝えられる。運んだのは軽い書簡だけで、料金は当初半オンスごとに5ドル。18か月で終わった。1861年10月、大陸横断電信が開通し、その二日後に廃業した。
場所
39.77°N -94.85°E · アメリカ・ミズーリ州
本文
1860年のアメリカでは、東部とカリフォルニアのあいだの連絡が極めて遅かった。1848年に金が見つかって以来、カリフォルニアの人口は急に増え、1850年には州になっていた。それでも東部からの手紙は、船で大西洋岸からパナマへ行き、地峡を陸路で越え、また船で北上して届くのに3〜4週間かかった。陸路では1858年からバターフィールド陸上郵便の駅馬車が走っていたが、ミズーリからテキサス、ニューメキシコ、アリゾナを回る南寄りの道で、サンフランシスコまで25日ほどかかった。南を回るのは冬の山越えを避けるためでもあり、南部の議員の政治力のためでもあった。どの道を通すかは、南北の対立の争点の一つだった。
運送業を営むウィリアム・ラッセル、アレクサンダー・メジャーズ、ウィリアム・ワデルの三人は、陸軍への物資輸送で大きな事業をしていた。彼らは、中央を通る北寄りの道でも速く、冬でも通れることを示せば、政府の郵便の契約を取れると考えた。こうして始めたのがポニー・エクスプレスである。東の起点は、鉄道と電信の西の終点だったミズーリ州セントジョセフ。西の終点はカリフォルニアのサクラメントで、そこから先は船でサンフランシスコへ渡した。距離はおよそ3100キロ、目標は10日だった。

道筋には、およそ15〜25キロごとに中継所が置かれた。その数は190ほどになる。騎手は中継所に着くたびに新しい馬に乗り換え、それを何度も繰り返して100キロから150キロほどを走り、次の騎手に郵便を渡した。馬の乗り換えは2分ほどで済ませたという。速さを支えたのが、モキーラと呼ばれる革の覆いである。鞍の上にかぶせる一枚の革で、四隅に鍵のかかる小袋が付いており、そこに手紙を入れた。乗り換えのときは鞍ではなく、この覆いだけを次の馬の鞍に掛け直せばよかった。郵便の重さには上限があり、馬の負担を減らすために騎手は体の軽い若者が選ばれた。
騎手の募集については、有名な文句が伝わっている。痩せて丈夫な18歳以下の若者、熟練の騎手、日々死の危険を冒す覚悟のある者、孤児を優先する、というものだ。あまりに印象的なため繰り返し引用されてきたが、当時の新聞にこの広告は見つかっておらず、後の創作とする説が有力である。確かなのは、メジャーズが騎手に聖書を渡し、酒を飲まない、汚い言葉を使わない、仲間と争わないと誓う誓約書に署名させたことだ。彼は熱心な信仰の持ち主だった。騎手はおよそ80人いたとされる。のちにバッファロー・ビルとして名を売るウィリアム・コーディも騎手だったと自ら語ったが、それを疑う研究者は多い。「ポニー・ボブ」ことロバート・ヘイスラムは、交代の騎手が見つからないまま往復600キロ余りを走り通した記録で知られる。

道は、ミズーリを出てカンザスとネブラスカの平原を西へ進み、ロッキー山脈の南の峠を越えてソルトレイクシティに至る。そこからネヴァダの砂漠を横切り、シエラネヴァダの山を越えてカリフォルニアに下る。昼も夜も走り続けるため、騎手は暗闇の中でも道を外れないように、同じ区間を受け持って土地を覚えた。冬のシエラネヴァダでは雪が深く、馬を降りて引くこともあったという。
1860年4月3日、セントジョセフとサクラメントの両方から最初の便が出発した。西へ向かった便は4月14日にサクラメントに着き、目標の10日を守った。最も速かったのは、1861年3月にエイブラハム・リンカーンの大統領就任演説を運んだ便で、7日17時間ほどで西部に届けたとされる。南北の対立が戦争へ向かう中で、カリフォルニアを北部の側につなぎとめるうえでも、速い便りには意味があった。

料金は高かった。始めは半オンス(約14グラム)ごとに5ドルで、労働者の何日分もの稼ぎに当たる。手紙は極めて薄い紙に細かい字で書かれ、使うのは主に新聞社、政府、銀行や商人だった。料金はのちに引き下げられ、最後は半オンス1ドルになった。
終わりは早かった。1861年10月24日、モールスの電信の線が東西から延びてソルトレイクシティでつながり、大陸横断電信が開通した。その二日後、ポニー・エクスプレスは廃業を告げた。続いたのは18か月あまりである。運んだ手紙は約3万5000通、赤字は20万ドル前後と見積もられている。目当ての郵便の契約は取れず、ラッセル・メジャーズ・アンド・ワデル社は行き詰まって倒れた。この事業を担った会社の正式な名の頭文字は、資金が尽きかけていたことを皮肉って「すっからかんで給料も払えない」と読み替えられ、社員のあいだで冗談にされていたと伝えられる。ラッセルはそれ以前に、陸軍省の債券をめぐる不正事件に巻き込まれてもいた。

危険も確かにあった。1860年には、ネヴァダでパイユート族との戦争が起き、いくつもの中継所が襲われて駅員が殺された。ただ、命を落とした騎手として確かめられているのは数人にとどまる。中継所で馬の番をして待つ者のほうが、むしろ危険にさらされていた。
18か月で赤字のまま終わった事業は、それでもアメリカ西部の神話の中心の一つになった。バッファロー・ビルは1883年に始めた見世物の興行でポニー・エクスプレスを呼び物にし、欧米を巡業した。マーク・トウェインは『苦難を忍びて』(1872年)で、駅馬車の窓から見た騎手の姿を描いている。遠くの黒い点が見る見る大きくなり、馬と人の形になったと思うと、歓声と手の振りを残して夢のように走り去る、という場面である。切手、記念碑、道の名にもその名は残り、アメリカの郵便は今もこの事業を自らの伝統の一つに数えている。

ポニー・エクスプレスは、人と馬の力で便りを運ぶ速さの、ほぼ限界を示した。3100キロを10日。そこに届いたわずか18か月後に、電気が同じ距離を数分にした。電信線を建てるときには、ポニー・エクスプレスの道と中継所が使われたところもある。そして1869年には大陸横断鉄道の開通が開通し、人と荷物の旅も一変する。馬が切り開いた道の上に、電柱と線路が並んでいった。