アルギルダス
概要
ゲディミナスの子。青水でキプチャク汗国を破り、キエフを取った。三度モスクワを囲み、落とせなかった。異教のまま死に、馬と共に火葬されたと伝わる。
所属
リトアニア大公国関わったできごと(1)
青水の戦いAD1362年 · 大公本文
1296年頃に生まれた、ゲディミナスの七人の息子の一人である。バルト海の南東の森と沼の国リトアニアは、ヨーロッパに最後まで残った異教の国だった。西からはキリスト教化を掲げるドイツ騎士団が攻め、東には、モンゴルの支配で分裂したルーシの諸公国が広がっていた。父のゲディミナスは、その東へ領土を広げ、ヴィリニュスを都にした。

1341年に父が死ぬと、都を継いだのは末に近い弟のヤウヌティスだった。1345年、アルギルダスは弟ケーストゥティスと組んでヤウヌティスを退け、大公になった。以後、兄弟は国を分けて治めた。アルギルダスは東を、ケーストゥティスは西を。ケーストゥティスがトラカイの城から騎士団と戦い続けるあいだ、アルギルダスはルーシの地へ兵を進めた。兄弟が争わなかったのは、この時代のリトアニアの珍しさになる。王家の兄弟が殺し合うのが当たり前の時代だった。
東での広がり方には、戦いと婚姻の両方があった。最初の妻マリアはヴィテプスク公の娘で、その結婚でヴィテプスクを継いだ。二人目の妻ウリヤーナはトヴェリ公の娘である。息子たちを征服したルーシの町の公に据え、正教の住民の信仰と慣習には手を付けなかった。リトアニアの貴族は異教のままでも、国の住民の多くは正教徒のルーシ人で、公文書もルーシの言葉で書かれた。

1362年頃、南のステップで、キプチャク汗国に属する三人のタタールの首長の軍を破った(青水の戦い)。キプチャク汗国は内紛で揺らいでいた。この勝利で、リトアニアはキエフを取り、ドニエプル川の流域から黒海に近い草原の縁まで勢力を伸ばした。古いルーシの都が、モンゴルの支配からリトアニアの支配へ移ったことになる。
北東で争ったのは、力を増してきたモスクワだった。妻の兄弟にあたるトヴェリ公ミハイルは、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイと争っていて、アルギルダスはそれを助けた。1368年、1370年、1372年と三度、兵を率いてモスクワを囲んだ。だがモスクワは、その直前の1367年に、木の柵に代えて白い石の城壁をクレムリンに築いたばかりだった。落とせないまま、和議を結んで引き揚げた。ロシアの年代記は、この攻撃を「リトアニアの災厄」と呼んで記録している。

ルーシの年代記は、アルギルダスを、酒を飲まず、遊びを好まず、昼も夜も国のことを考えていた人物として描く。行き先を誰にも告げずに軍を動かし、敵は彼が来ることを知らなかった、とも書く。正教会の側から見ても、侮れない君主だった。モスクワとは別に、自分の領内のための府主教を立てるよう、コンスタンティノープルの総主教に求めてもいる。
宗教の選び方は慎重だった。正教徒の妻を二人持ち、子には正教の洗礼を受けさせながら、自分は異教のまま死んだ。西のローマ教皇や神聖ローマ皇帝からは、何度もカトリックへの改宗を持ちかけられた。兄弟は、騎士団が奪った土地を返すなら洗礼を受けてもよい、と条件を出したが、受け入れられるはずのない条件だった。どちらかの教会に入れば、もう一方を敵に回す。その均衡を、最後まで崩さなかった。
1377年に死んだ。18頭の馬や持ち物とともに火葬されたと年代記は伝える。ルーシの年代記には、死の前に正教の修道士になったと書くものもあり、どちらが本当かは分からない。
12人の息子がいた。そのうちの一人が、後継に指名されたヨガイラ(ヴワディスワフ2世)だった。兄たちや叔父ケーストゥティスとの争いの末に、ヨガイラはケーストゥティスを殺し、その子ヴィタウタスと長く争うことになる。父の代の兄弟の協力は、息子の代で崩れた。1385年、ヨガイラはポーランドの女王と結婚してカトリックの洗礼を受けることを約束した(クレヴォの合同)。アルギルダスが避け続けた選択を、息子は国の生き残りのために選んだ。リトアニアとポーランドの結びつきは、その後400年にわたって東ヨーロッパの地図を形づくっていく。