ディエンビエンフーの戦い

概要
植民地側の軍が、正面からヨーロッパの軍を降伏させた。世界中の独立運動がこれを見ている。
場所
21.38°N 103.02°E · ベトナム
関わった人(1)
ヴォー・グエン・ザップAD1911年8月25日–AD2013年10月4日 · ベトナム側 · 総指揮本文
1953年11月、フランス軍の空挺部隊が、ベトナム北西部の山あいの盆地ディエンビエンフーに降下した。ラオスとの国境に近い、細長い谷の村である。フランスは7年前から、ホー・チ・ミンの率いるベトミン(ベトナム独立同盟)と戦っていた。1945年のベトナム民主共和国の独立宣言をフランスが認めず、植民地を取り戻そうとしたことから始まった戦争だった。
インドシナのフランス軍司令官ナヴァール将軍の計画はこうだった。ベトミンの通り道に強固な陣地を置き、ラオスへの進出を阻む。ベトミンが陣地を攻めてくれば、空輸で支えた砲兵と航空機で叩く。ゲリラ戦を得意とする相手を、フランスが得意な正面の戦いに引き出すねらいである。盆地には滑走路が整えられ、周りの小さな丘に拠点が築かれた。拠点にはベアトリス、ガブリエル、イザベルといった女性の名が付けられた。守備隊はフランス人だけではなく、外人部隊、北アフリカの植民地出身の兵、ベトナム人の兵を多く含んでいた。

問題は、盆地を見下ろす周囲の山だった。フランス軍は、ベトミンが重い大砲を山の上まで運ぶことはできないと考えていた。運べたとしても、わずかな数だろうと。
ベトミン軍を率いたヴォー・グエン・ザップは、歴史の教師から軍人になった人物である。彼は数個の師団、合わせて5万前後の兵をこの盆地の周りに集めた。中国から送られた榴弾砲や高射砲を分解し、兵士と数万人の民間の運搬人が、ジャングルの道を押し、担ぎ、綱で引いて山の上へ運んだ。食糧や弾薬の輸送には自転車も使われた。荷台を補強した自転車は、一台で200キロ以上を運んだとされる。大砲は山の斜面に掘った掩体に据え、撃つときだけ外に出した。

ザップは当初、一気に攻め込むつもりだった。だが攻撃の直前、準備が足りないとみて延期し、時間をかけて陣地を一つずつ攻める方針に改めたと、のちに回想している。自ら最も難しい決断だったと語った判断である。
1954年3月13日、攻撃が始まった。山の上からの砲撃は、フランス軍の想定をはるかに超えていた。北の拠点ベアトリスはその夜のうちに落ち、ガブリエルも2日後に失われた。フランスの砲兵指揮官は、敵の砲を沈黙させると約束していたのを果たせず、自ら命を絶った。滑走路はまもなく砲撃で使えなくなり、補給と増援は落下傘で落とすしかなくなった。雨季が近づき、空からの投下の多くはベトミン側の陣地に落ちた。

ベトミン軍は、フランス軍の陣地に向けて塹壕を掘り進め、少しずつ距離を詰めていった。白兵戦が繰り返され、双方に大きな犠牲が出た。人の波で陣地に迫ったベトミン側の死傷者は、フランス側を大きく上回ったとされる。追い詰められたフランス政府はアメリカに空爆を求め、アメリカ政府内では原子爆弾の使用まで検討されたが、議会や同盟国イギリスの同意が得られず、介入は見送られた。
5月7日、司令官ド・カストリの司令部が占領され、守備隊は降伏した。攻撃開始から56日目だった。捕虜はおよそ1万1000人。数百キロ離れた収容所まで歩かされ、病と飢えで多くが死んだ。数か月後に帰還できたのは、その3分の1ほどとされる。
降伏の翌日、スイスのジュネーヴで開かれていた国際会議で、インドシナの問題の討議が始まった。会議は4月末から朝鮮半島の問題を話し合っていた。7月に結ばれたジュネーヴ協定で、ベトナムは北緯17度線で南北に分けられ、2年後に統一選挙を行うことが決められた。フランスでは6月に首相となったマンデス=フランスが、1か月で和平をまとめると約束して交渉に臨んでいた。フランスはインドシナから手を引いた。だが選挙は実施されず、南にはアメリカの支える政権が立ち、やがてベトナム戦争へと続いていく。

この戦いの意味は、ベトナムの外にも広がった。植民地の側の軍が、ヨーロッパの正規軍を正面から戦って降伏させたのである。同じ年の11月、フランスのもう一つの植民地でアルジェリア戦争が始まった。その戦いを起こした人々も、ディエンビエンフーの知らせを聞いていた。翌1955年、インドネシアでバンドン会議が開かれ、独立したばかりのアジア・アフリカの国々が集まる。
フランス軍は、地形が自分たちに有利だと信じていた。相手が何をできるかを、自分たちの尺度で見積もったことが、敗北の始まりだった。ザップはその後もアメリカとの戦争で北ベトナム軍を率い、1975年の南北統一を見届けた。2013年に102歳で死んだとき、ハノイには弔問の長い列ができた。盆地には今、両軍の戦死者の墓地と、当時の陣地の跡が残っている。