家に番号を振る
概要
七年戦争でプロイセンに敗れたハプスブルク家は、兵をどこから何人集められるかを、正確に知りたかった。マリア・テレジアは1770年、領内の男と家畜を数え上げる調査を命じ、そのためにすべての家の壁に番号を書かせた。それまで家は、持ち主の名や屋号や、どの領主に属するかで呼ばれていた。番号は、それを村ごと、町ごとの通し番号に置き換える。役人と兵が戸口を一軒ずつ回り、数字を塗っていった。家に番号が付くと、そこに住む人は、国から見つけられる人になる。番地は、郵便より先に、徴兵のために生まれた。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
マリア・テレジアAD1717年5月13日–AD1780年11月29日 · 数え上げを命じた本文
1763年、七年戦争が終わった。ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアは、父の死の直後にプロイセンに奪われた豊かなシュレージエン地方を取り戻すために、ロシアやフランスと手を結んでこの戦争を戦った。だが七年の戦いの末、シュレージエンは戻らなかった。人口でも国土でもはるかに大きいハプスブルクの国が、小国プロイセンに勝てなかったのである。
ウィーンの宮廷は、負けた理由を考えた。その一つが、兵の集め方だった。プロイセンでは、フリードリヒ2世(大王)の父の時代から、国を連隊ごとの区域に分け、その区域の村々で兵になる男をあらかじめ登録しておく仕組みができていた。必要なときに、どこから何人の兵を出せるかが、国の側で分かっている。一方、ハプスブルクの国では、兵を集めるのは各地の領主や身分制の議会の役目で、宮廷はどこに何人の若い男がいるのかを正確につかんでいなかった。

マリア・テレジアと、共同統治者となった息子のヨーゼフ二世、それに改革派の大臣たちは、プロイセンと同じような仕組みを作ろうとした。国の力を中央に集める一連の改革(マリア・テレジアの統治)の一つである。そのためにはまず、国の中にどれだけの人がいるのかを、宮廷の手で数えなければならない。
1770年、領内の住民を数え上げる大がかりな調査が命じられた。家ごとに住む人を数え、男については年齢と、兵になれる体かどうかを書き留める。結婚しているかどうかも記した。さらに、馬と牛の数も数えた。戦争になれば、大砲や荷車を引かせる力が要るからである。この調査は「魂の記述」と呼ばれた。調べに回ったのは、軍の将校と地方の役人が組になった一団で、彼らは村から村へ、一軒ずつ戸口を訪ねて歩いた。

数えるには、家を見分けなければならない。それまで、家は持ち主の名前や屋号で呼ばれていた。町には「金の鹿」「青い鍵」のような看板の名を持つ家があり、村では誰それの家、と呼べば足りた。家がどの領主の土地に建っているかによって呼ばれることもあった。同じ村の中に、違う領主に属する家が入り混じっていることも珍しくない。領主ごとに付けられた帳簿をいくら集めても、村全体の姿は見えてこなかった。
そこで調査の一団は、すべての家の壁に番号を書いていった。村ごと、町ごとに、1から始まる通し番号である。家がどの領主のものであっても構わない。農民の小屋にも、貴族の館にも、修道院にも、同じように番号が書かれた。こうして数えた人の数を、番号を振った家と結びつけて帳簿に残した。帳簿があれば、何番の家に兵になれる若い男が何人いるかが、宮廷から分かる。翌1771年には、この調査をもとに、国を連隊ごとの徴兵の区域に分ける制度が導入された。

番号は、住む人々に歓迎されなかった。番号が書かれれば、その家の息子は兵に取られる、と多くの人が考えた。実際その通りだった。夜のうちに壁の番号を消したり、泥で塗りつぶしたりする者が出た。貴族も嫌がった。由緒ある屋敷の壁に、農民の小屋と同じように数字を書かれるのは、家の体面にかかわることだった。それでも調査は繰り返され、番号は書き直され、帳簿は更新されていった。
家に番号が付くと、そこに住む人は、国から見つけられる人になる。税を取り立てる役人も、兵を集める将校も、番号を手がかりに目当ての家へたどり着ける。家を探す便利さは、のちに郵便を届ける人や、町を訪れる旅人にも及んだ。だが、番地はもともと住む人の便利のために生まれたのではない。国が人を数え、兵を集めるために生まれた。便利さは、あとからついてきたのである。

村ごとの通し番号には、一つの弱点があった。番号は家が数えられた順に付いているので、隣どうしの家の番号が近いとは限らない。家が新しく建てば、村の最後の番号がその家に振られる。番号を知っていても、場所はすぐには分からなかった。ウィーンのような大きな町では、十九世紀の半ばになって、通りごとに番号を付け直すことになる。
それでも、ハプスブルクの家番号は意外なところで生き続けている。いまのチェコでは、多くの家に二つの番号の札が掛かっている。一つは通りごとの番号で、もう一つはその町や村の中で家が登録された順に付けられた古い通し番号である。後者は、まさにマリア・テレジアの時代に始まった家の数え方を受け継ぐものとされる。

三十五年後の1805年、パリでは、家の番号を通りに結びつけ、右に偶数、左に奇数を振る決まりが作られた(右が偶数、左が奇数)。ハプスブルクの家番号が「国が家を数えるための番号」だったとすれば、パリの番地は「人が家を探すための番号」だった。家に数字を書くという同じ行いにも、何のために数えるのかによって、まったく違う仕組みが生まれた。