白藤江の戦い
概要
干潮を利用して杭で船を沈めた。1000年におよぶ中国の支配が終わり、ベトナムが独立する。
場所
20.92°N 106.75°E · ベトナム北部
関わった人(1)
呉権AD897年–AD944年 · ベトナム側 · 総指揮本文
いまのベトナム北部、紅河の流域は、紀元前111年に漢の武帝が南越国を滅ぼして以来、中国の王朝の支配の下にあった。途中で徴姉妹の蜂起のような反乱が何度も起きたが、長続きしなかった。ベトナムの歴史では、この時代を「北属期」と呼ぶ。数えておよそ1000年になる。
転機は中国の側から来た。907年に唐が滅び(唐の滅亡)、中国は五代十国の分裂の時代に入る。紅河の地でも、現地の有力者の曲氏が節度使として事実上の自立を果たした。広州を中心に南漢という国が興り、この地を取り戻そうと兵を送るが、931年、現地の将軍楊廷芸が南漢の勢力を追い出した。

937年、楊廷芸が部下の矯公羨に殺された。楊廷芸の娘婿で、その部将だった呉権は、仇を討つために兵を挙げる。追いつめられた矯公羨は、南漢に助けを求めた。南漢の王劉龑は、これを好機と見て、息子の劉弘操に艦隊を預けて送り出した。劉弘操を「交王」に任じており、この地を息子の領地にするつもりだった。ところが南漢軍が着く前に、呉権は矯公羨を討ち取っていた。南漢の艦隊は、そのまま呉権の軍と向き合うことになる。
南漢の艦隊は海から白藤江を遡ってくると見込まれた。白藤江は紅河の支流で、海に近い下流は潮の満ち引きの影響を強く受ける。潮差は大きく、満潮時には深い川が、干潮時には浅くなる。

呉権は、川の口に近い川底に、大量の杭を打ち込ませた。先を尖らせ、鉄をかぶせたとも伝えられる。杭の高さは、満潮のときには水に隠れて見えず、潮が引くと船底に届くように合わせてあった。
938年の冬、南漢の艦隊が満ち潮に乗って入ってきた。呉権は小舟を出して戦いを挑み、負けたふりをして上流へ退かせる。南漢の船はそれを追って杭の並ぶ水域を越えた。潮が引きはじめたところで、呉権の主力が反撃に転じた。南漢の船は引き潮に乗って退こうとしたが、水面に頭を出した杭に船底を突き破られ、身動きが取れなくなった。劉弘操は戦死し、南漢軍の多くが溺れた。知らせを受けた劉龑は兵を引き揚げ、二度と攻めてこなかった。
翌939年、呉権は王を名乗り、紅河のほとりの古螺に都を置いた。これがベトナムの独立王朝の始まりとされる。ただし呉権は944年に亡くなり、その後は各地の豪族が並び立つ混乱が続いた。国をまとめ直したのは968年の丁部領で、国号を大瞿越とした。国家としての独立がはっきりするのはこのときだという見方もある。
同じ川で、同じ方法が繰り返された。981年には黎桓が宋の軍を白藤江で破ったとされる。そして1288年、陳朝の将軍陳興道が、元の水軍をやはり杭と潮で打ち破った(白藤江の戦い(元寇撃退))。日本に二度攻め寄せた(元寇)元の軍勢は、ここでも海から退けられている。20世紀の終わりから、白藤江の周辺で木の杭の列が発掘されているが、確かめられているのは主に1288年の戦いのものとされ、938年の戦場の正確な位置ははっきりしていない。

ベトナムの歴史では、白藤江の戦いは中国からの独立を取り戻した起点として置かれる。以後、中国の王朝は宋・元・明・清と何度も兵を送ったが、明が20年ほど支配した時期を除いて、この地を取り戻せなかった。
一方で、独立したベトナムの王朝(大越)は、中国の制度と漢字と儒教を取り入れ続けた。科挙を行い、官僚を漢文で動かし、中国の皇帝には朝貢して形の上では臣下となりながら、国内では自らを皇帝と称した。独立を守りながら中国の文物を使う。その二重の関係が、ここから1000年近く続くことになる。