人物

ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)

Jogaila / Władysław II Jagiełło
AD1352年頃 – AD1434年6月1日(享年82・推定)
リトアニア大公国重要度 4

概要

異教のリトアニア大公が、洗礼を受けてポーランド女王と結婚し、二つの国の君主になった。グルンヴァルトでドイツ騎士団を破る。その家が200年、両国を治める。

所属

リトアニア大公国

関わったできごと(2)

クレヴォの合同AD1385年8月14日 · 大公。ポーランド王になるグルンヴァルトの戦いAD1410年7月15日 · 総指揮

本文

14世紀半ば、リトアニア大公国の大公アルギルダスの子として生まれた。生年は1352年頃とも1362年頃とも言われ、定まらない。母はロシアのトヴェリ公の娘ウリヤナで、正教徒だった。当時のリトアニアは、ヨーロッパで最後まで洗礼を受けずに古い神々を祀っていた国である。それでいて領土はいまのベラルーシやウクライナまで広がり、住民の多くは正教のスラヴ人だった。

西からは、ドイツ騎士団が「異教徒への十字軍」を名目に毎年のように攻め込んできた。騎士団にとってリトアニアとの戦いは、ヨーロッパ中の騎士が武勲を立てに来る狩り場のようなものだった。リトアニアがキリスト教を受け入れることは、その名目を奪うことでもあった。問題は、誰から洗礼を受けるかである。騎士団から受ければ騎士団に、モスクワから受ければ正教の世界に組み込まれる。

1377年、父の死で大公の位を継いだ。父と共に国を治めてきた叔父ケーストゥティスとはすぐに対立し、1382年、ヨガイラは叔父とその子ヴィタウタスを捕らえた。叔父はクレヴォ城の牢で死んだ。首を絞められたとも伝わる。ヴィタウタスは侍女の服を着て牢を抜け出し、騎士団のもとへ逃れた。この従兄弟とは、その後も争いと和解を繰り返すことになる。

道が開けたのは、隣のポーランドからだった。ポーランド王家は男系が絶え、10歳ほどの少女ヤドヴィガが「王」として戴冠していた。ポーランドの貴族たちは、騎士団に対抗するため、この少女とリトアニア大公を結婚させようと考えた。1385年、ヨガイラはクレヴォで、洗礼を受けること、リトアニアをカトリックにすること、ポーランドに領土を取り戻すことなどを約束した(クレヴォの合同)。

クレヴォの合同に関わる図版:Union of Krewo
クレヴォの合同Wikimedia Commons en:Jogaila · Public domain

1386年2月、ヨガイラはクラクフで洗礼を受け、ヴワディスワフの名を得た。その3日後にヤドヴィガと結婚し、翌月、ポーランド王に戴冠した。花嫁は12歳ほど、花婿はその倍以上の年だった。ヤドヴィガにはハプスブルク家の婚約者がいて、城の門を斧で破って会いに行こうとしたという話も伝わるが、これは後の物語とされる。

翌1387年、ヨガイラは司祭たちを連れてヴィリニュスに戻り、聖なる火を消し、聖なる森を切り払わせた。年代記によれば、民衆は組ごとに分けられて川で集団で洗礼を受け、一人ずつ白い羊毛の肌着をもらった。肌着ほしさに二度洗礼を受けに来る者もいたという。リトアニアの貴族たちには、カトリックになることと引き換えに、ポーランドの貴族と同じ特権が約束された。

しかし大公国の貴族たちは、ポーランドに飲み込まれることを嫌い、逃げていたヴィタウタスのもとに集まった。争いの末、1392年、ヨガイラはヴィタウタスにリトアニアの実際の統治を任せることで折り合った。二つの国は一人の王を戴きながら、別々の国のまま残った。

1399年、ヤドヴィガが出産のあとに亡くなり、生まれた娘も死んだ。ポーランドでの王位の根拠を失いかけたヨガイラは、かつてのポーランド王の孫娘アンナと再婚して足場を保った。翌1400年には、ヤドヴィガが遺した宝石を元手に、クラクフの大学を立て直した。いまのヤギェウォ大学である。

1410年7月15日、ヨガイラとヴィタウタスはポーランドとリトアニアの連合軍を率いて、グルンヴァルトでドイツ騎士団と戦った(グルンヴァルトの戦い)。ヨガイラは戦いの前にミサを二度聞き、なかなか攻撃の命令を出さなかった。しびれを切らした騎士団の総長は、使者に抜き身の剣を2本届けさせ、戦う気が無いなら貸してやると挑発したと伝わる。戦いは連合軍の大勝に終わり、総長は戦死した。ただ、そのまま騎士団の本城マリエンブルクを落とすことはできず、翌年の和約で得た領土はわずかだった。それでも騎士団の勢いはここで止まり、二度と元には戻らなかった。

グルンヴァルトの戦いに関わる図版:Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem
グルンヴァルトの戦いWikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

ポーランドの使節は、のちのコンスタンツ公会議で、異教徒であっても武力で改宗させてはならないと論じ、騎士団の十字軍そのものの正当性を問うた。リトアニアの改宗によって、騎士団は戦う名目を失いつつあった。

二人目の妻アンナにも男子は生まれず、ヨガイラは四度結婚した。最後の妻ゾフィアとの間に、1424年と1427年に二人の男子が生まれた。父はすでに70歳前後だった。あまりに遅い子だったため、その血筋を疑う噂が貴族の間でささやかれ、王妃は潔白を誓わされている。

1434年6月1日、ルーシの町グルデクで亡くなった。春の夜、森でナイチンゲールの声を聴いていて体を冷やしたのが元だったと伝えられる。遺体はクラクフのヴァヴェル大聖堂に葬られた。

息子のヴワディスワフ3世はポーランドとハンガリーの王を兼ね、もう一人の息子カジミェシュ4世の子孫は、ボヘミアとハンガリーの王位も得た。このヤギェウォ家は1572年まで続き、その間に二つの国はさらに結びついて、ポーランド・リトアニア共和国となる。異教の大公が一度の結婚で始めた連合は、およそ400年続いた。

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