カルロヴィッツ条約

概要
第二次ウィーン包囲の失敗から16年、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの神聖同盟にオスマンが負け続けて、ハンガリー、トランシルヴァニア、ポドリア、ペロポネソスを失った。オスマンが領土を割譲した最初の条約。イギリスとオランダが仲介した。ここから220年、オスマンは縮み続けた。「東方問題」。
場所
45.20°N 19.93°E · セルビア
本文
1683年9月12日、ウィーンを包囲していたオスマン軍は、カーレンベルクの丘から駆け下りたポーランド王ソビエスキの騎兵と帝国軍に挟まれて崩れた(第二次ウィーン包囲)。総大将の大宰相カラ・ムスタファは、その年の暮れにベオグラードでスルタンの命により絞殺された。1529年の第一次ウィーン包囲以来、中央ヨーロッパを脅かしてきたオスマン帝国の攻勢は、ここで止まった。カルロヴィッツ条約は、それから16年続いた戦争の決着である。
1684年、教皇インノケンティウス11世の呼びかけで、神聖ローマ皇帝レオポルト1世、ポーランド王、ヴェネツィア共和国が「神聖同盟」を結んだ。1686年にはロシアも加わった。オスマンの側は、ウィーンでの敗北のあと内紛が続き、スルタンの廃位まで起きて、立て直しに手間取った。
戦争の前半は、同盟側の勝利が続いた。1686年、帝国軍はブダを落とし、1541年から145年続いたオスマンのハンガリー支配の中心を奪った。翌1687年には、160年あまり前にモハーチの戦いがあったのと同じ一帯でオスマン軍を破った。1688年にはバルカンへの入口ベオグラードも取った。南ではヴェネツィア軍がギリシアのペロポネソス半島を攻め取り、1687年にはアテネを包囲した。アクロポリスのパルテノン神殿にオスマン軍が火薬を蓄えていたところへヴェネツィアの砲弾が落ち、2000年以上立っていた神殿の中央が吹き飛んだ(パルテノン神殿の完成)。

ところが1688年、フランスのルイ14世がライン地方へ攻め込み、皇帝は西でも戦わなければならなくなった。オスマンはこの隙を突き、有能な大宰相キョプリュリュ・ファズル・ムスタファのもとで反撃して、1690年にベオグラードを取り返した。しかし翌1691年、ドナウ河畔のスランカメンの戦いで大宰相は戦死し、戦争は膠着した。
決着をつけたのは、サヴォイア家出身の若い将軍、プリンツ・オイゲンである。1697年9月11日、彼はハンガリー南部のゼンタで、ティサ川に架けた橋を渡っている途中のオスマン軍を急襲した。軍が川の両岸に分かれた瞬間を狙ったのである。オスマン軍は川に追い落とされ、2万から3万人が死んだとされる。スルタンのムスタファ2世は対岸からそれを見ているほかなく、ベオグラードへ退いた。帝国軍の損害は数百人だった。オイゲンはこの時33歳。のちにハプスブルク家の最も名高い将軍になる。

講和を仲立ちしたのは、イギリスとオランダだった。両国はフランスとの次の戦争(スペインの王位をめぐる争いが迫っていた)に備えて、皇帝の手を東から自由にしておきたかった。1698年11月、ベオグラードの北西、ドナウ川の岸にある小さな町カルロヴィッツで会議が開かれた。オスマン側と同盟の4か国は、それぞれ別々に交渉した。会議のために建てられた木造の建物には、どちらが先に入るかで格を争わないよう、複数の入口が設けられ、代表たちは同時に入場したと伝えられる。交渉は70日あまり続いた。
1699年1月26日、条約が結ばれた。基本は「今持っているものを持つ」という原則だった。オーストリアは、南東部のテメシュヴァール周辺(バナト)を除くハンガリーのほぼ全域と、トランシルヴァニア、クロアチアとスラヴォニアの大部分を得た。ポーランドは、1672年にオスマンに奪われていたポドリア地方と要塞都市カミエニェツを取り戻した。ヴェネツィアはペロポネソス半島とダルマチアの一部を得た。ロシアはこの時は休戦にとどめ、1700年に別の条約で、ピョートル1世が1696年に攻め取っていたアゾフを認めさせた。

オスマン帝国はそれまでも戦いに敗れることはあったが、講和はたいてい休戦の形をとり、大きな領土を正式に手放すことはなかった。1606年のジトヴァトロクの講和では、スルタンが初めて皇帝を対等の君主として扱ったが、それでも領土はほとんど動かなかった。カルロヴィッツは、オスマンが敗北を認め、広大な領土を条約で割譲した最初の講和だった。そして、それまでの「イスラームの家」と「戦争の家」という世界の見方の上に、ヨーロッパの国々との交渉と条約で境界を決めるという、新しい付き合い方が持ち込まれた。オスマン側の交渉には、イタリアのパドヴァで学んだギリシア人の通訳官マヴロコルダトスが加わっていた。
ここから、オスマン帝国の領土は縮み続けた。1718年のパッサロヴィッツ条約でベオグラードとバナトを失い、1739年のベオグラード条約でいったん取り返したものの、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約ではロシアにクリミアの独立と黒海での航行権を認めた。19世紀に入ると、セルビアとギリシア(ギリシア独立戦争)が独立へ進み、1878年の講和でバルカンの多くを失い、20世紀の初めのバルカン戦争で、ヨーロッパの領土はほとんど消えた。帝国が弱るにつれ、その土地を誰が取るかをめぐって列強が争った。19世紀のヨーロッパの外交で「東方問題」と呼ばれたのが、この問いである。

ハンガリーにとっても、カルロヴィッツは単純な解放ではなかった。オスマンの支配は終わったが、代わりにハプスブルク家の支配が強まり、1703年にはラーコーツィ・フェレンツ2世がハプスブルク家に対して独立戦争を起こしている。荒れたハンガリー南部には、ドイツ人やセルビア人などが入植し、のちの多民族の土地の下地ができた。カルロヴィッツはいま、セルビアのスレムスキ・カルロヴツィという町である。会議の建物のあった場所には、1817年に「平和の礼拝堂」が建てられた。