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Event / できごと

カルロヴィッツ条約

Treaty of Karlowitz
AD1699年1月26日
重要度 5

概要

第二次ウィーン包囲の失敗から16年、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの神聖同盟にオスマンが負け続けて、ハンガリー、トランシルヴァニア、ポドリア、ペロポネソスを失った。オスマンが領土を割譲した最初の条約。イギリスとオランダが仲介した。ここから220年、オスマンは縮み続けた。「東方問題」。

場所

カルロヴィッツ
45.20°N 19.93°E · セルビア

本文

1683年、第二次ウィーン包囲。9月12日、ソビエスキのポーランド軍がカーレンベルクから降りて、オスマン軍が崩れた。カラ・ムスタファは12月にベオグラードで絞殺された。

1684年、神聖同盟。教皇インノケンティウス11世、皇帝レオポルト1世、ポーランド、ヴェネツィア、1686年からロシア。16年。1686年、ブダ(145年のオスマンの支配が終わった)。1687年、モハーチ(161年前の逆)。1688年、ベオグラード。1690年、オスマンがベオグラードを取り返した(フランスがルイ14世の戦争で皇帝の背後を突いた)。1691年、スランカメン。1697年9月11日、ゼンタ。プリンツ・オイゲン(34歳)が、ティサ川を渡っている途中のオスマン軍を襲った。3万人が死んだ。スルタン・ムスタファ2世は逃げた。

イギリスとオランダが仲介した(フランスとの戦争にオーストリアを使いたかった)。1698年11月、カルロヴィッツ(ベオグラードの北西、ドナウの岸の村)。4か国とオスマンが、同時に別々に交渉するために、4つの扉のある円い木の家を建てた(誰が最初に入るかで争わないように。「円卓」の最初、と言われる)。72日。

1699年1月26日。オーストリアは、ハンガリー(テメシュヴァールを除く)、トランシルヴァニア、クロアチア、スラヴォニア。ポーランドは、ポドリアとカミエニェツ。ヴェネツィアは、ペロポネソス(モレア)とダルマチアの一部。ロシアは1700年、別に、アゾフ。

オスマンが、負けを認めて、領土を渡した最初の条約。それまでは、休戦だった(ジトヴァトロク1606年は対等、ヴァスヴァール1664年はオスマン有利)。

ここから、オスマンは縮んだ。1718年、パッサロヴィッツ(ベオグラード、ワラキア西部)。1739年、ベオグラード(一部取り返した)。1774年、キュチュク・カイナルジャ(ロシアに黒海)。1812年、ブカレスト(ベッサラビア)。1829年、アドリアノープル(ギリシア独立)。1878年、ベルリン。1912〜13年、バルカン。1920年、セーヴル。

「東方問題」。オスマンが消えたあとの土地を、誰が取るか。19世紀のヨーロッパの外交の主題。

カルロヴィッツはいま、セルビアのスレムスキ・カルロヴツィ。条約が結ばれた場所に、1817年、カトリックの礼拝堂(平和の聖母)が建った。

同じ時代のできごと

ラゴスとベニン湾の交易AD17〜19世紀プエブロの反乱AD1680年8月10日ヴェルサイユ宮殿への移座AD1682年第二次ウィーン包囲AD1683年生類憐みの令AD1687年(貞享4年)『プリンキピア』AD1687年名誉革命と権利章典1688年ロック『統治二論』AD1689年